椿くんが赴任してきて、俺の生活に変化が訪れた。

 新しい教師が何人か並んでいる中、いい体つきの体育教師がいると思ったけど――
「椿昇介です。担当は数学です」
 その言葉で、いかに自分が先入観でものを見てしまっているかを自覚する。
 ただ、人は第一印象も大事だろうし、多少、見た目で判断することもあるだろう。
 椿くん自身、そんな風に見られることを悪く思っていないのが『体育教師かと思った』なんて別の先生からの突っ込みに笑っていた。
「運動大好きなんで。サッカーとか」
 ボールを追いかける姿が目に浮かぶ。
 まるで犬みたい。
 そんな第一印象は、やっぱり間違っていなかった。



 2か月くらい経ったある日のこと。
 放課後、俺のいる保健室に、椿くんが勢いよくドアを開けて飛び込んできた。
「ああっ、すみません。失礼します……!」
 大きな音を立ててしまったことに遅れて気付いたのか、申し訳なさそうに頭を下げる。
「生徒はいないので、大丈夫ですけど……」
 正直、俺は驚かされたし、もう少し静かにして欲しい。
 ただ、自覚はあるのか反省しているみたいなので、わざわざ注意はしないでおく。

「どうかしましたか?」
 体調不良とかではなさそうだけど、それこそ見た目で判断しすぎてはいけない。
 はたから見ているだけではわからない不調も当然あるからだ。
 生徒の場合も同じで、あきらかに仮病だと思えるものであっても、仮病を使うくらい休みたいのなら、それは心の不調とも考えられる。
「その……」
 椿くんは、背後のドアをちらりと振り返った後、俺の方に来てくれた。
 一応、椅子から立ち上がる俺の耳元で、内緒話でもするように、
「大したことではないのかもしれませんが、すぐそこのトイレで、生徒が……」
 そう教えてくれた。
 具体的な話は聞かなくとも、なんとなく察する。
「そこ、教室から少し離れているので、穴場だと思われてるみたいなんですよね」

 通常、生徒が教室から下駄箱に向かう際、保健室も保健室近くの廊下も通らない。
 体育館に向かう生徒が通ることもあるけど、やっぱり、放課後、時間を置いてここを通る生徒は少ないだろう。
「わー……男子校ってそういうのあるんだ……」
 まるでカルチャーショックと言わんばかりに、椿くんは自分の口元を手で覆いながら戸惑っていた。
 当然、男子校すべてが、そんな感じではないと思うけど。
「こういうの、驚かない方がいいですよね。注意するのも違うし……見て見ぬふり?」
「場合によるんじゃないですか。授業中なら、注意した方がいいだろうし」
「ああ、そうですね……」
 ただ性的なものを見たにしては戸惑いが大きいし、この人はノンケなんだろう。
 驚かない方がいいですよねって提案も、ゲイに気遣うノンケが言いそうだ。

「……ところで、椿先生はどうしてこっち来たんですか?」
 職員室とは逆方向だし、それこそあえて用事がある人でもないと、ここはよっぽど通らない。
「あ、佐々木先生、俺と同い年だって聞いて……その、ちょっと気になって……」
「ああ……そうだったんですね」
 同い年ってだけでも、多少は親近感が沸く。
「具体的になにか話があるわけでもないし、生徒がいるかもしれないんで、入るかどうかは迷ってたんですけど……通りかかったら……」
 トイレでなにか見て、ここへ逃げ込むことになったらしい。



 俺たちが、タメ口で話す仲になるまで、そう長い時間はかからなかった。
 椿くんは、俺を『佐々木先生』じゃなく『佐々』と呼ぶ。
 些細なことではあるけれど、それだけで少し距離が近くなっているのを感じた。

 ……でも椿くんは、俺とは違う。
 俺と違う世界で生きてきた人間。
 20年以上かけて培ってきたその人の常識や価値観は、そう簡単に変わらないだろう。
 変わったように見えても、理解してくれているように見えても、上っ面だけのコーティングで、中身はそのままなんてこともある。
 結局、そういう場面で勃たないとか、イけないとか。
 世の中の常識や情勢、世間の評価に反発してまで貫けるほど、変われるとは思えない。
 まあ、元々こっちにいた人間が、そっちに流されることはあり得そうだけど。

 椿くんのことは、きっと好きにならない方がいい。
 踏みとどまって、のめり込まないように。
 そうしないと、たぶん俺は傷つくだろう。





 また、男子生徒がなにかしてる現場に居合わせたらしい椿くんが、今日は少し落ち着いた様子で保健室に入ってきた。
「彼らって、本気なのかな」
「んー……どういう意味?」
 俺はなんとなくその意味に気付きながらも、椿くんに尋ねる。
「そこに男しかいないから、男で手を打ってるとか、友情の延長……みたいな」
 ただの欲求不満の解消だったり、好奇心から抜き合ってみているだけかもしれない。
「そういうのもあるだろうし、環境で勘違いする子もいるんだろうね」
「勘違い?」
「元々ノンケだけど男もイケるとか、自分はバイだとか」
 ただ抱けるだけ。
 でも、それは恋愛対象じゃない。
「ああ……たしかに勘違いもありそうだけど。俺も、佐々ならイケる気がする」
 椿くんは、なんでもないことのようにそう言った。
 けど、それは勘違いだろう。
 実際、抱けるのかもしれないけど、上っ面の理解でしかない。
「あ、ごめん。別に、女扱いしてるとかじゃなくて……」
 わかってる。
 この環境が、そうさせているんだろう。
 男同士でもいいような気がして。
 同い年で仕事に理解があって、でも担当は違うから話しやすい。
 都合よく話が合って、中性的な見た目の男がそこにいたら、イケる気がするのもわかる。
 それで、理解があるつもりなんだろう。
 でも椿くんは、本当の意味で理解があるとは言い難い。
「……俺のこと、好き?」
 そう尋ねると、椿くんは少し戸惑いがちに頷いた。
「まあ、その……」
「俺も、椿くんのこと、結構好き」
「あ……えっと、結構って……」
 わりと……だいぶ好き寄りだけど、デリカシーのない人だなと思ってる。
 それを正さないことには、付き合い切れないだろう。
 そもそもこの人は、きっと、俺を抱くことしか考えてない。
 まさか自分が、抱かれる側になるだなんて、思ってない。
 同性愛に理解があるつもりで、一見、中性的な俺ならイケるってだけ。
 結局、基本的にはノンケだけど、女よりも同性で話の合う俺の方が気楽だし、付き合いやすい……なんて思ってるに違いない。
 これも、俺の勝手な想像だから、実際どうかはわからない。
 わからないけど、そんな気がしてならなかった。

 こういう『理解してます』って思いこんでる人の方が『理解できません』って人より逆に厄介だったりする。
「……椿くんはノンケで、バイかもしれないって思ってるんだろうけど。もう少し、冷静に考えた方がいいよ」
「ごめん。気、悪くした?」
 気は悪い。
 軽々しく『男もイケる』みたいなことを言われて、俺がその当事者で。
 たぶん、俺はわりと椿くんのことが好きだから、不愉快なんだろう。
 本気の理解じゃない姿が垣間見えてしまった。
「……俺がノンケで、男にそういう目で見られるのが嫌だとかいう理由じゃないから」
 一応、釘をさしておく。
「じゃあ……」
 椿くんにはわからないだろう。
 本気で好きかもしれない男に『女の代わり』として見られる男の気持ちなんて。
 女扱いしているわけじゃなくても、都合のいい女の代用品だ。
「言ってなかったけど。俺、ゲイなんだよね。バイでもなくゲイ」
「あ、ああ……そうなんだ?」
 なんとなく察していたのか、驚かないフリをしているのか。
 椿くんは、たぶん理解者のつもりでいる。
「だったら、さ……」
 なんで不快になってるかって?
 そこまで、椿くんが理解してくれていないからだ。
「椿くん、言ったよね。『彼ら本気なのかな』『そこに男しかいないから、男で手を打ってるとか、友情の延長みたい』って」
「それは生徒のことで……」
「実際、そういう生徒もいると思うよ。だからそれはいい。でも勘違いもありそうだ、なんて話した後に、俺ならイケる気がするなんて言われても」
「あ……う……」
「そういう冗談、ノンケ相手だったらウケたかもしれないね。いや、ノンケだったら、それはそれで嫌がられるか」
「……ごめん。でも、冗談とかじゃ……」
「冗談めかして、言ってみた? でも、勘違いかもしれないんでしょ」
 しゅんと項垂れる椿くんを見て、さすがに言い過ぎたと自覚する。
 理解を押し付けてるのは俺の方だ。
 理解なんて、出来るはずないのに。

 けど――
 相手はノンケなんだから、好きになっても無駄だと思っていた俺の気持ちなんて知りもしないで、軽々しく冗談めかしてイケそうなんて言われたら、腹が立つのも当然だ。
 当然だけど、椿くんはそんなこと知る由もない。
 それなのに、いら立ちをぶつけてしまっている自分にも腹が立つ。
「……ごめん。ちょっと頭冷やすから、1人にして」
「佐々……俺……」
「椿くんも、少し冷静に考えてさ。ゲイ相手にそういう冗談、通じないし。勘違いなら、なかったことにする。勘違いじゃないつもりでも……たぶん、難しいよ」
 俺は、促すようにして椿くんを保健室から追い出した。

 元々ノンケである以上『女の代用品』といった感覚から抜け出すことは、きっと難しい。
 女とは違うってどれだけ思っても、椿くんはこれまで、女しか相手にしてこなかった人間だ。
 だいたいこんな些細なやりとりで、苛立たれたり、不快に思われたり、傷つかれたりされている時点で、すごくめんどくさいだろう。
 俺だってめんどくさい。
「はぁ……」
 どうしてこんなめんどうなことになっているのか。
 気付かなくてよかったことに、俺は気付いてしまう。
 踏みとどまれなかった。
 俺は椿くんのことを本気で好きになっていたみたいだと、このとき自覚した。