「鈴……? 帰らないの?」
そう友達の陸に声をかけられて、俺は自分がいかに長い時間、教室に居座っていたのかを思い出す。

「陸は? どうして…」
「部活の帰り。どうせ部室から帰るのに教室通るから、俺、部活にカバン持ってってないんだ。……まだ、あげてないの…?」
机の上に置いてあるチョコを見てか、陸は俺に聞いた。

今日はバレンタインデーだから。
一応、用意していた。
好きな人に…渡部先生にあげるチョコ。

「いつのまにか、時間、経っちゃってさ。陸に声かけられるまで、ホント、ボーっとしちゃってたし」
「渡部先生なら、もう部活終わったんじゃないかな」
「…うん。でも、いいや。あげるの、止めようかなって思ってる」

陸は、なにも言わず、ただ俺の頭をそっと撫でてくれた。


このチョコを、渡部先生にあげたら。
きっと喜んでくれる。
だって、先生だもん。
生徒から貰ったらさ、嬉しいよね。

たぶん、俺以外からもたくさん貰ったりしてるんだろうし。
けどさ。
本気だって知ったら一気に重苦しくて困るモノに変わるんだろうな。
俺は別に、渡部先生を困らせたいわけじゃない。

先生と生徒でなんて。
きっと無理なんだ。

「陸、これ、陸にあげるよ」
「っ……貰えないよ」
「だって。…捨てられないし。だから、いい」

自分の声が、泣きそうなのがわかって、少し恥ずかしくなった。
けれど自覚したらますます、泣きたくなった。

「…鈴…。渡部先生に、あげようよ。本気だって伝えられなくても、とりあえず、あげよう?」
陸は優しいなぁ。

俺は頷いて。
陸に付き添って貰いながらも、渡部先生が顧問をしている英会話部へと向かった。


部活動はもう終わったようで、運よく渡部先生だけがいた。
「鈴。あとはがんばって」
俺と渡部先生、2人きりの方が都合がいいだろうと思ってくれたのか、陸はそう言って、俺の背中を軽く叩いた。
俺もまた頷いて、陸を見送った。

とりあえず、あげよう…かな。

「…渡部先生」
なんでもない風に呼びかける。
このとき、どうしようかなんてちゃんとは考えていなかった。
ただ、近くに好きな人がいたから。
呼んでしまったんだ。
「……?」
振り返って、俺を見下ろす姿はなんだかかわいらしくてたまらなかった。

俺のこと、知らないよね。
担当でもないし。
困るよね。
生徒なんて、何人もいるのに。
担当の子ですら、すごい人数で覚えてんの? って聞きたいくらい。

渡部先生の記憶に俺はいないはず。
だって、一方的に見てただけだから。
けど、俺を思い出そうと必死だよね?
ほら、生徒を忘れただなんて、そんな態度は取れないだろうし。

「渡部先生は、俺のこと知らないと思うよ。担当じゃないし」
「そう…か。でも、君は知っててくれるんだ?」
にっこり笑ってくれて、嬉しくて。
けれど、悲しくなった。

どうして知ってるかって。
見たから。
渡部先生が、生徒とキスしてるとこ。
すごく色っぽくてかわいくて。
好きになってた。

見たくなかったけれど、見なきゃこの人のこと、好きにならないままだったのかもしれない。
それはやっぱり嫌なんだ。
辛いけど。
この人を好きになったことは後悔していないから。

泣きたい気持ちを抑えて。
カバンからチョコを取り出す。
「これ、貰ってください」
「…俺に? ありがとう」

にっこり笑って受け取ってくれる。
社交辞令?
営業スマイルってやつか。

それが本命なんだとか、わざわざ伝えられないけれど。
だからといって、義理ですよ、なんてあえて言うことも出来なかった。

無理だって、わかってるのになぁ。
なんだか泣けてきたし。

「じゃあ、それだけだから」
悟られないよう背を向けると、腕を取られた。
「ちょっと待って」
振り返って、うっかり顔をあげてしまう。

顔、見られるじゃんか。
「…名前…聞いていい?」
あえて、泣きそうな俺には触れず、優しくそう聞かれ、俺は下を向いた。

…こんな大人数の生徒の中の一人。
わざわざ名前なんて聞く必要なくない?

嬉しいのと。
それでも、叶わないんだろうなって想いが混ざって、涙が溢れた。

「…2年の…風見鈴です…」
「鈴か…。可愛い名前だね。ありがとう」

渡部先生の声が響いて。
もう俺、泣いてる顔、見られてもいいから、渡部先生のこと見てたくて。
顔をあげると、ぼやけた視界の中、それでもにっこり笑って。
俺の頭を撫でてくれる先生の姿。

知ってるんだ。
この人は誰にでも優しい人なんだって。

好きです…って。
言ったら困るよね?

ごめんなんて言われたら、俺もうあわす顔ないし。
いまはこうやって、喜んで貰えて、それだけですっごくいい気分なのに。
せっかくだからこのままでいたい。


「…大丈夫?」
泣く俺を気遣って、指先でその涙を拭ってくれる。
「…はい」
俺は、それから少し逃れるように自分の袖で涙を拭いた。

「俺、もう帰るよ」
「うん。ありがとう」


渡部先生に見送られて、俺は教室をあとにした。

ねぇ。
俺は渡部先生の記憶の中にどう残ったかな。
少しでも、残ってるといいな。




翌日、教室で。
朝一番に陸が俺のところへ来てくれた。
「昨日、大丈夫だった?」
「……なんか、ちょっと駄目かも」
陸は、すごく心配そうに俺を見てくれる。
ホント、優しいなぁ。
「なにか…あったの?」
「あげただけだよ? だけど、なんか俺、気持ち昂っちゃって、泣けてきちゃってさ。
本命だって伝えてないけど、バレたなーって」
「…そっか。でも、よかったと思うよ。他の生徒とおんなじように受け取られても、やっぱ寂しいし」
でもね。
渡部先生から見たら俺は他の生徒とおんなじなんだよ、きっと。
「自分の気持ち、なんとなく伝わっただけでもいっかな」
少し前向きに考えることにしよう。
「陸、後押ししてくれてありがと。俺、ホントに迷ってたから。あのままなにもあげれずに終わるとこだった」
「…ううん。俺……鈴みたいにまっすぐに人を好きって思えるの、すごくいいなって思った。
俺は、好きだけど恥ずかしいとか、考えちゃうから。
鈴は渡部先生のこと、本当に好きだからこそ、迷ってるんだろうなって思ったし」

好き。
もう諦めようと思ってた。
だからこそ、あんなに泣けたんだ。
けれど優しくされたら、困っちゃうよ。

キスしてたのって、恋人かな…。
違うんだとしたら誰なんだろう。



「鈴、今日はめずらしくボーっとしてるな」
1時間目の数学の授業後。
智巳先生に声をかけられる。
「あ…ごめんなさい」
「いや、別にいいんだけど。なんかあったか?」
智巳先生なら、なにか知ってるだろうか。
「…渡部先生って、恋人いるのかなって」
「いないけど」
即答され、逆に返答に迷う。
「え……」
「あの人、一人がラクってタイプだから。真面目だけど縛られたくないって感じかな」
「…縛られたくないって……」
「だから、恋人はいないけど、やる相手ならいるんじゃないの?」
結構、ずばずばと教えてくれるけれど…。
やる相手って…。
じゃあ、キスしてたのは、そういう人…?
もちろん、全部が全部、鵜呑みに出来る内容ではないと思うけど。

まだ…俺にも可能性はある…のかな。

「っ…俺、渡部先生に会ってくる」
「いや、授業始まるし。せめて昼休みにしろ?」 .
…そうだよな。
「うん…」
「好きなの?」
「…うん」
「がんばって」
智巳先生がそう言って、頭を撫でてくれた。

智巳先生って、なんだかんだでいろんな人の情報持ってるんだよな。
そんな人が、俺にがんばってって。

つまりさ。
諦めなくてもいいってこと?

俺は頷いて、昼休みを待った。


渡部先生の貴重な昼休み。
奪っちゃうのは申し訳ないけれど、待てないんだ。
少しだけ、話しがしたい。

職員室を訪ねると、智巳先生と目が合って、渡部先生を呼んでくれていた。

「あ、鈴だね」
「はい。少しだけ…話してもいい?」
「うん。いいよ」
渡部先生は笑顔で、俺と一緒に職員室から少し離れた人気のない廊下まで来てくれた。

「先生…。昨日はごめんね。俺……先生のことが好き」
直球で言うと、わかってたようで、俺の頭をそっと撫でた。
「…どういう意味の好き…かな?」
「え……」
「例えば、キスがしたいとか」
「……したいけど…」
「鈴がしたいなら、する…? キスとか、その先とか」
その先…?
そりゃ、したくないわけがない。
智巳先生が言ってた、恋人じゃないけどやる相手って。
ホントにいるんだ…?
「…俺…っ」
「鈴なら、いいよ」
やりたいよ、そりゃ。
でも、好きだからだ。
やるだけの関係になりたいわけじゃない。

「したくない…っ。からかわないで」
俺は渡部先生の手を払いのけた。
「…鈴…?」
「付き合いたいんだよ。やりたいんじゃない」

渡部先生は、俺の迫力に一瞬、言葉を失っているよう。
でもね。
俺は本当に本気なんだ。
だから、ただやるだけなんて嫌。

「…鈴…。ごめん。鈴がそんな風に思ってくれてるだなんて考えてなくて。
俺のこと、どこかで聞いて、なにかしたいのかなって思ったから」
…どこかで聞いてって…。
やっぱり、渡部先生が誰か生徒とやったりしてるのって、知ってる人は知っちゃってることなんだ…?
「俺、やり目的じゃないよ」
「ありがとう…、でも、教師と生徒が付き合うのは難しいよ」
遠まわしに振られているんだと思った。
難しくても構いませんなんて、言ってみたところで困るんだろう。

「……そういうの理由にしないでよ…。それって、結局、俺のことちゃんと恋愛対象で見てくれてないってことだよね? …しょうがないけど」

渡部先生は、俺が払いのけた手で、俺の手を取った。
「…鈴が、思ってくれてるような人間じゃないよ。体の繋がりは恋人同士でしかありえないって考え方も出来ないし、割り切ってやることも出来る。
……たぶん、人と付き合っても、それとは別で、しちゃうと思う」
「…恋人がいるのにほかの人とやるの…?」
「全然違うよ。お互いが愛し合ってするのと、ただ欲求不満の解消したいのと。
 わかるだろ。男ならさ。
 疲れてただ、出したいってときとか。
 そういうときに、恋人とするのって、逆に俺は変な感じするし」
わかるよ。
わかるけど。

「…難しいでしょ?」
「…好きだから付き合いたくて。俺のことも好きになって欲しいんだ。やりたいんじゃないし。俺、初めて先生のこと見たのって、先生が誰かとキスしてたのだったから。でも智巳先生に恋人はいないって聞いて、あの人はそういう相手なんだなって思った。他でやってても、だからって嫌いになんてならないし」

渡部先生の手が俺の肩を掴んだ。
「鈴…。キスしていい…?」
「……俺、体だけの関係とか、嫌で…っ」
「わかってる。…したい」
どういう意味…?
それでも頷くと、そっと口が重なった。
舌が絡む。
熱っぽくて、気持ちよくて、たまらない。

そっと口が離れても、なんだか頭がボーっとしていた。

「ね。鈴…。もう一度、よく一人で考えて。本当に俺でいいのか」
「っ……渡部先生はどう思ってるの?」
「……嬉しいよ。すごくね。だからこそ、傷つけたくないから。よく考えて。よければまた、会いに来て」

そう言うと、もう一度、軽く俺に口を重ねて、バイバイと手を振った。

よく考えて…か…。

午後の授業も、もちろん集中できなかった。
頭の中は渡部先生のことばかり。

渡部先生は、やることに関して、結構軽く考えてる人なんだろう。
例えば一人Hの延長みたいな。

恋人がいるのに一人でするのは駄目だって、そこまで縛ろうとは思わない。
それと似た感じ。

してるときの先生を他の人に見られたくないとか。あるかもしれないけど。
恋人とするのとそうじゃないときとでは全然違うって言ってくれてるし。

どうしようもなく好きだから。
もう関係ない。



放課後、また部活後に合わせて、渡部先生の教室を訪ねた。
一人だ。

俺を見つけて、少し驚いた様子。
「っ…鈴…どうして」
「どうしてって…。来てもいいって言ってくれたよね…? 俺、やっぱり好きだし…」
不安でそう言うと、渡部先生は、目を潤ませる。
「…先生?」
「駄目…だよ。きっと鈴のこと傷つける」
「なんで? 他の人とするから? 他の人との行為は全然違うって言ってくれたでしょ」
「そうだけど。俺は、欲求不満の解消に恋人を使いたくないんだ。
恋人とはちゃんと、繋がりたいって感じたときにしたいから…っ」
「うん…。わかる」
「でも、定期的に欲求不満にはなるよ? だから…っ」
「他の人とするんでしょ。わかってる」

渡部先生は、ポロポロと涙をこぼす。
「…どうして泣くの…?」
「っごめ…。みっともなくて」
「ううん。取り繕わなくていいから。嬉しいし」
泣く先生を抱き寄せた。
俺より少し背の高い先生は、俺の肩で泣いて。
俺は渡部先生の頭をそっと撫でた。

「鈴…俺は、我侭だよ。恋人がいても他の人しちゃうなんて。それを許して欲しいだなんて」
落ち着いたのか、それでも俺に頭を撫でられたまま、渡部先生は言った。
「我侭なんかじゃないよ。……だから、恋人作ってなかったんでしょ。一人で、いいと思ってたんだ…?」
「こんな自分、受け入れてくれる人なんて、いないと思ってたから。一人の方が、ラクに感じたんだ」
「ねぇ。俺の友達でも、付き合ってるけど他のやつとしてるってのいるよ? 渡部先生は真面目だから、それに負い目を感じすぎちゃうんだよ」

そっと体を離して先生を見る。
「…先生…。付き合ってくれる?」
落ち着いたはずの先生はまた、目を少し潤ませて、それでも頷いてくれていた。

やっぱり愛おしいよ。
ギュっと抱きしめて、確認しあうように口を重ねた。