「宮本先生―。そろそろ範囲教えてくれません?」  
授業後、教科書を束ねてる俺に、そう声をかけてきたのは、しょっちゅう俺の授業をサボる拓耶。
「あぁ、もしかして俺が休んでる間に、もう発表してたりする?」
 まったく何が言いたいのか。
「範囲とか発表とか、なにが知りたいんだ? お前は」
 そう言い返すと、少し楽しそうに、含み笑いをする。
「まさかとは思うけど、忘れてる…? もうすぐテスト♪」
 耳元でそう言われ、体が一瞬固まった。
 初めての教師生活、いろんなことがありすぎてすっかりテストなんて忘れてた。
 範囲も決めてなければ、テスト問題も作っていない。
 だいたい俺みたいな新任が、テスト問題を作っていいのだろうか?
 でも、3年生の数学はすべて俺が担当してるから、俺以外の誰が作るわけにもいかない。
「忘れてないよ…っ。ったく。明日、伝えるからっ」
「今日でもいいのにね。まぁ、1日、じっくり範囲考えて♪」
「だから、忘れてないってばっ」
 すっかり、拓耶にはバレてるようだった。
 テスト範囲って、やっぱ、授業でやったとこまで…?
 でもあんまりギリギリも駄目だよな。
 少ない範囲で、応用問題をたくさん出すとか。
 それより、範囲広げて、基本の問題だけにするとか。
 でもそうすると、満点とかたくさん出ちゃったりして…。
 いまだに、この学校のレベルとか把握できてないからだめすぎ。
「宮本先生〜迷ってんの? 桐生先生に聞いてきなよ。去年は3年担当だったし」
 確かに、4年担当の桐生先生に聞けば、去年、どんな問題を3年生に出題したかわかるかもしれない。
 あの人は、この学校に就任して長いみたいだし…。
 少し話を聞こうかな…。
「うん…」
「あぁ。やっぱ忘れてたんだ…?」
 …ハメ…られた…?
 拓耶は楽しそうに俺の顔を見る。
「そうじゃなくって…まだ考えてるだけっ」
 そう言って、教科書を持って、教室をあとにした。



 職員室で、時間割表を見ると、桐生先生は、次の授業はどうやら休みらしい。
 俺も入ってないから、ちょうどいい。
 話を聞こう…って、そう思ったんだけど…。
 なかなか桐生先生は職員室に戻ってこない。
 この時間以外で、今日、2人とも授業がない…ってな時間がない。
 思い立ったら即行動。
 さっそく4年生のクラスの方へと足を進めた。

 というのも、実は今まで4年生の方って来たことなくって。
 どうにも気になって、行ってみたいってのがあった。
 でも用もないのにウロつけないし。
 4年生の生徒のこと、全然知らないってのもなぁって思ったし、これはいい機会。



 4年生と会ったのは始業式の新任紹介のときだけだ。
 そんなのいちいち聞いてない生徒も少なくない。
 誰かの兄とか思われたりして。
 年的にもおかしくない。
 だが、兄が何しにくるんだ? 忘れ物?
 だれかが届けなきゃならないほど、忘れて困るものなんてないだろ。
 いや、一応、学校にいるんだし、やっぱ先生って思ってもらえるはずだ。
 ただ、なんの先生かがわからないくらいで…。
「せーんせ♪」
 その声に振り返ると、もちろん知らない4年生の生徒。
「…えっと…」
「めずらしいですね。4年生のとこ来るなんて…。誰かに用?」
 これは、もし誰か名指しすれば取り次いでくれたりするのだろうか。
 いや、取り次ぐもなにもそんなおえらい様と会うわけじゃないんだが。
 しかし、このまま桐生先生を探せずにウロウロしているのもなんだ。
 聞いた方が早いだろう。
「桐生先生、今どこか知らないかな。授業ないはずなのに待っててもなかなか職員室に戻って来なくって…」
 次の授業があるのなら、いくら休み時間があってもわざわざ職員室には戻らず、直接次の教室に行くこともあるだろう。
 でも、1時限休みなら普通、戻るだろう…?
 もう授業始まって15分も立つんだから、戻ってこないのはなにか理由があるはずで…。
「あ…れ…? 授業は…」
 なんで、こいつはいるんだ…?
「あー…今まで保健室にいて、今、帰ってきたとこなんすよ」
 なるほど。
「確か、次の授業、桐生先生のはずだから、一緒に行きましょかね」
「でも…」
 桐生先生、次は授業ないんじゃ…。
「ホントは英語なんすけど、今日、先生いなくって自習なんで…代わりに来てるんですよ」
 そういうことか。
 にしても、4年生ってことは、俺よりもこの学校に関しては3年生も先輩なわけか。
 いまいち、俺はまだどこになんの教室があるのか把握できてなかったりするし。
「宮本先生さー」
「えっ!!??」
 名前を呼ばれてつい、驚いて生徒の顔を見てしまう。
「…え…?」
「いや…名前、知られてるとは思ってなくて…」
 そう言うと、笑いながら『覚えてますって』って、言ってくれた。
「先生の話よく聞くし」
 俺の…話…?
「初め宮本先生って言われもピンとこなかったんだけど、そんときに『始業式で、一番背の低かった先生』って教えてくれて…。すぐわかった」
 確かに俺は一番、背が低かったけど…。
 俺が低いっていうよりは、他の人が高いような…。
 そんな問題じゃない。
 それより
「俺の話って…」
「3年生の後輩とかにね。あと…柊先生に…」
 柊先生っ!!??
 まったく、だれかれ構わず俺のことを言うなんてっ。
「…柊先生って、俺のこと、そんなにいろんな人に言ってるわけ?」
「そうでもないですよ。俺、仲いいんですよ。柊先生と。いろいろ相談乗ってもらってるし。逆に、相談も受けたり」
 じゃぁ、この子は、特別、いろいろと聞いてるってわけ…?
 その相談がなんなのかは気になるけど、そこまで聞いちゃさすがに駄目だよな。
「後輩ってのは…」
「あぁ。俺、美術部の部長なんですよ。3年生の子たちと仲良くて。聞いてますよ。新任の数学の先生がかわいいって」
 かわいい…って…?
 それって喜んでいいのかわかんないって。
 そりゃ、童顔だし…大人っぽい4年生の子より、年下に見えることもあるかもしれない。
 でもそれは、俺が若く見えるってのもあるけど、その4年生たちが大人っぽいってだけでっ。
 やっぱ、からかわれてるんだろうか…。
 なんだかヘコむ…。

「つきましたよ」
 4年2組の教室に到着。
だけど、思えば自習とはいえ、桐生先生は授業をしているわけで…。
「今、桐生先生呼んだらやばいよね…」
 って、こんなこと、生徒に相談してどうするんだよ、俺っ。
 でも、ほかに相談する人いないし。
 かといって一人で考え込んでるのもっ。
 そんなこと考える前に聞いちゃったけど…。
「大丈夫じゃないっすか? そんなめちゃくちゃまじめってな先生でもないし。それよりわざわざ会いに来てくれたわけだし。だいたい、本来、桐生先生の授業がある時間帯じゃないですしね」
 大丈夫…なのかなぁ。
 そうこう考えてるうちにも、その子がドアを開けてしまう。
 しかも前。
 思いっきり、桐生先生の目がこちらを見て俺ら2人を捕らえた。
「あ…れ…。変わった組み合わせ」
「宮本先生が、用があるらしいんだけど」
「授業中にすみません。ちょっと…あの、今じゃなくてもいいんですけど…」
 やっぱ、まずいだろう。
 授業中ってのは。
「俺が、廊下で会ったから、そのまま連れてきてまったんよ」
 そう一緒に来てくれた子が言ってくれる。
 なんていうか、俺が先生の授業の邪魔をするような無作法な奴ではないと、フォローしてくれてるみたいで…。
 なんていい子なんだ…。
「あぁ、じゃぁぜひ、一緒に」
 一緒に…?
 自習の監督…?
 せっかくの好意を断るわけにもいかないし、フォローしてくれたこの子にも悪い。
 俺は、失礼します…と、一応断ってから、教室の中へと入り込んだ。
「優斗は、ほら。プリント」
 優斗っていうのか。
 桐生先生からプリントをもらうと、自分の席らしきところについた。
 
 この子たちって、いったいどんな問題解いてんだろう?
 つい興味本位で、教卓に余っているプリントを手に取った。
「あれ…」
 英語の授業って言ってたから、英語かと思ったのに数学だ。
「ホントは自習なんだけど、もうすぐテストだから、プリントあげてるんです。別にやれってわけじゃなくって、ただ参考に」
 俺が疑問に思ったのを読み取られたのか、そう説明してくれる。
 そうか…。
 普通の先生ってのは、テスト前にはプリントとかあげてたりするわけか。
 ますます己の未熟さに焦ってくる。
「まぁ、座ってください」
 進められるがままに、教卓の横に並べられたイスに腰を下ろした。
 
 つまりは、このプリントにあるみたいな問題を4年生はテストで出されるのか。
 数学の問題を見るとどうも解きたくなってしまう。
 桐生先生のところには、ちょうど生徒が聞きにきて、先生はそれに答えている。
 その最中だけでもいいや。
 俺は、一応持ってきていた筆箱からシャーペンを取り出すと、教卓の隅をかりてプリントの問題を解きにかかった。


 さすが。
 4年生ともなると難しい。
 というか、基本問題はわざわざプリントにしないか。
 正規分布や16進法なんかの応用問題だった。
 正規分布は好きじゃない。
 はじめにいちいちやる足し算が面倒だったり。
 それに加えて公式が、ごちゃごちゃしててわかりにくかったり。
 というか面倒だ。
 Σの小文字なんて出すなよな。
 だいたい、俺がやってんのは数学であって英語じゃないんだから、σとかαとかわかり難いんだよ。
 あぁ、σもαも英語じゃなくってギリシャ語か。
 σが数字の6みたいでわかりにくいんだよな。



「宮本先生。つまらなそうっすね」
 俺の前に、優斗が来て、そう言った。
「…あぁ…別につまらないってわけじゃないけど…。正規分布って面倒じゃない?」
「でもまぁ、公式に当てはめちゃえば、答えが出るからラクと言えばラクじゃないですか?」
「なるほどね…」
 って、俺、数学教師らしからぬこと言ってるよな…。
「宮本先生、俺に用って…?」
 そう言われて、桐生先生のところに聞きにきていた生徒がもういないのに気づく。
「あぁっと。テストのことでちょっと…。俺、いまいち、テスト問題とかどうすればいいのかわかんなくって」
「あぁ…じゃあ、今日の夜でもいい? 部屋に来てくれれば、前のとか見せれるし」
「いいんですか?」
 桐生先生は、桐生先生で、忙しいはずなのに…。
「かまやしないね。おいで」
「俺も、行きたいな♪」
 楽しそうに、横で俺らの話を聞いていた優斗が口をはさむ。
「お前が来る理由は?」
「数学でわかんないとこがあるから」
「嘘つくなって」
「んじゃぁ、監視役」
 監視…?
「…なぁに、俺ってそんな信用なし?」
「なし♪俺は、柊先生の味方だから」
 なんでそこで柊先生が出てくるわけ…?
「でも、優斗の彼女、柊先生にやられたんじゃなかったっけ。怒んないの?」
「最後までしてないし」
 ちょっと…
 どういうことだろう。
 柊先生って、優斗の彼女にも一応、手、出してるんだ…?
 というか、俺のことで柊先生の名前が出てくるなんて、嫌…。
 桐生先生にもなにかうわさが回ってるんだろうか。
「桐生先生、彼女いるやんか」
「だから、別に、手、出すつもりないから大丈夫だって」
 まったくもって、なんて世界なんだ。
 まともなやつはいないのか?
 いや、いるはず。
 うちのクラスの子とか、いい子だもの。
「ま。冗談。信頼してるで」
 そう言うと、プリントを桐生先生に渡していた。
「一応、答えあってるか見といて」
「はいはい」
 そのまま席へと戻る優斗を目で見送っていると、桐生先生が軽く笑って、俺のことを見ていたのに気づく。
「な…ぁ…」
「優斗は、ああ見えても、ものすごく頭が良くて、教えがいのないやつなんだ」
 小声でそう教えてくれた。
「あれでも最近、悩んでるみたいで、よく保健室行くのは、そのせいだろうけど」
 悩んでるのか…。
 なんでもないみたいに見えるのに。
 柊先生に相談してるわけ?
 あの人って、そこまで相談相手になるような人にも見えないんだけど…。
「なんで悩んでるかってのは、俺は、予想は出来てもちゃんとしたものを聞いたわけじゃないから、助けてあげる助言をすることも出来ないんだよね…」
 柊先生なら、知ってるんだろうか。
 彼が、悩んでる理由を。
 気になって気になってしょうがなくなってくるじゃないか。
 もうだめだ。
「じゃぁ、夜、お伺いします」
「もう、行くんだ? なにか分かったら、よければ教えてやってね」
 …なにか分かればって…。
 バレバレ…? 俺が、なにか探ろうとしてること。
 まぁ、いいか。
「はい…。では」
 少し、恥ずかしいながらもそう答えると、俺は教室を出た。



 どうしても気になって仕方ないってことがある。
 会って間もないけど、優斗はいい子で。
 そんな子が悩んでるなんて忍びないというか。
 それを柊先生が知ってるとなると、どうしても聞き出したくなるわけだ。
 

 
 思えば。
 いつのまにやら、柊先生と仲良くなってきてる気がしてきた。
 このまま保健室に行ったら、また変に流されてやられてしまうんじゃないだろうか。
 そう思うと、どうも保健室へと一直線に行くことが出来ない。
 つい廊下で、立ち往生。
 窓から外を眺めて、ボーっとしてしまっていた。


「宮本先生」
「え…」
 その声に振り返ると、うちのクラスの陸が。
「陸、どうしたんだ? 顔色、悪いみたいだけど…」
 病弱ってわけじゃないとは思うんだけど、陸もわりと保健室に行く。
 もしかして、悩みがあったりするんだろうか。
「ちょっと…今から保健室に行こうと思ってるんですけど…。宮本先生は…? ボーっとして…」
「ん…。ちょっと…」
 気分の悪そうな陸をそのままほっとくのもなんだか気が引ける。
 陸について行くことにした。
「…陸…悩みとかあるわけ…?」
「どうしたんですか、急に…」
「なんとなく…そんな気がして…」
「…別に…それなりに考えることはありますけど…」
 何を…? なんて、聞いたら図々しいんだろうな。
 やっぱ、柊先生がうらやましい。
 手が早かったり、ちょっとどうかと思うこともあるけど。
 生徒から相談を受けるってことは、信頼されてるわけで。
 俺にはないもの、持ってるんだよなって思う。
「…はぁ…」
 つい、ため息をついてしまっていた。
「…俺、なにか悪いこと、言いましたか…?」
 陸が、そう言ってくれるもんだから、慌てて、違うと手を振った。
「陸が悪いわけじゃなくって。俺も、いろいろ考えることがあるから…」
 生徒のこと。
 テストのこと。
 柊先生のこと。
 教師としての自分のこと。
 こんがらがってきて、放棄したくなる。
「話すと楽になりますけどね」
 話す…?
「…誰に?」
「それは…話せる人にですけど…」
 誰に話せばいいんだろう。
 生徒のことは、前、柊先生に少し聞いてもらった。
 やっぱ、柊先生はすごい人だと思う。
 テストのことは、桐生先生に聞けば安心だろう。
 柊先生のことは…?
 誰に聞けばいい?
「誰にも言えない悩みもあるよね」
 つい、教師という立場も忘れて陸にそう話しかけていた。
「…あるんですか…? 悩み」
 悩み。
 聞き返されて、よくよく考えてみる。
 俺って、なにを悩んでるんだろう。
 柊先生のことって、結局なに…?
 付き合わないかって、言われて、ずっとそのまま。
 無視してるんだよな。
 本気だとは思えない。
 それに、彼は俺になんの魅力を感じてくれているというのだ?
 なんで、俺なんかに、好きとか言えるんだろう。
 なにも出来ない未熟者の教師…。
 だからこそ、手を差し伸べたく思ってくれてるとか?
 だとしたら、俺が、自分が望むように、ちゃんとした教師になったとき。
 柊先生は、俺に興味がなくなるのだろうか。
「…わからない…って、考えるってことは、あるのかな…悩み」
 悩みはないって即答出来ないでいるあたり。
 悩んでるんだろう。
「柊先生は、いろんな悩みを聞いてくれるようですよ」
 陸はそう教えてくれるけど。
 張本人に聞けることじゃないんだよな。
「ありがとう。今度、聞いてみるよ」
 せっかく、陸が教えてくれたんだから、一応、お礼をね。
 にしても。
 陸みたいな子にも、信頼されてるのか…。
 やっぱり、うらやましいなって思った。

 悩みの話が一区切りついたときだった。
「数学のテスト範囲はいつごろ発表なのでしょうか」
 陸が、少し不安そうにそう言った。
「え…あぁ、遅くてごめんね。明日には…」
「いえ。別に遅いってわけじゃ…。俺、数学…」
 苦手だから早く、範囲が知りたい…のかな。
 でも、数学の先生に、苦手…とは言いにくいよなぁ、さすがに。
「あー、今日、別の子にも聞かれたからさ。数学の範囲。明日までには決めるから」
「別の子…?」
「そう。テストのこと、忘れてんじゃないかって、からかわれちゃったよ」
 まぁ、ホントに少し忘れてたんだけど。
「…俺の…せいかも…」
 陸がいきなりそう言いだす。
「なんで…?」
 意味がわからない。
「…ちょっと…昨日の夜、友達と会ってるときに、数学の範囲、話題に出したんで…」
 拓耶が…陸の友達…なのかなぁ。
 だから今日聞かれたって確立も高いけど…。
「まぁ、陸が気にすることじゃないよ。陸のせいってわけじゃないし。俺も早く発表しなきゃって思ってたし」
 忘れてたけど…。


 そうこうしてるうちに保健室につく。
 陸につづいて、俺も中へと入っていった。
 いくら柊先生でも、陸みたいな生徒の前では変なことしないだろう。
「…陸…っ」
 そこには、柊先生のほかに拓耶もいて。
 少し肩を上下させながら、こっちに向き直っていた。
 陸の名前を呼ぶところを見ると、やっぱ、友達…?
「陸、頭痛…? 休んでていいよ。ちょっと、俺は出かけるから」
 柊先生はそう言って、俺の手を引いて保健室を出ようとする。
 おかしいだろ? 陸が来たとたんに出てくなんて。
「っ頭痛で来てる子を残して行っちゃうんですかっ?」
 俺はつい、そう柊先生に言っていた。
「…俺が、出来ることをしてるんです。頭痛の子を見守ってて、よくなります?」
「な…そんな…。安心とかするし…っ。保健の先生ってそういうもんじゃないんですか?」
 むきになる俺の耳元に口を近づけて、
「一人の方が落ち着くって生徒もいるんです」
 そう、小さな声で言った。
「じゃぁ、拓耶も…」
 俺までつられて小声になる。
「彼はいいんです」
 柊先生が、そう言い切るもんだから、なにも言えずに、一緒に保健室を出てしまっていた。


 少し、保健室から離れたところまで一緒に歩く。
 けど、こんな歩いてても意味はない。
「…拓耶となにしてたんです…?」
 明らかに息を切らしている感じがした。
 気になったのと、沈黙がつらいのとでそう聞いていた。
「…気にしてくれるんですか…?」
 そういう言い方をされると気に食わないというか、なんなんというか…。
「…拓耶もいろいろ悩んでるから…。少しでも助けてあげようとしたまでですよ」
 そうとだけ教えてくれた。
 拓耶も…柊先生に相談とかするんだ…?
 そういえば。
「なんで、拓耶はいいんですか? 陸と、そんなに仲いいんでしょうか…。友達がいると気ぃ使って寝れないとか…」
 ずっと、友達の話相手にならなきゃならなかったりするし。
「彼も、保健室に来た一人ですよ。いる権利はあります」
「でも…サボりじゃないんですか?」
「…保健室で一人で落ち着きたいって思うときがあるんでしょう。たとえ体は元気でも休みたいと思うのならば休ませてあげるのが俺の考えです」
 たしかに、授業を受ける気のないやつが授業に出たところで、得るものってのは少ないかもしれない。
 でも、授業に出るよう進めるのが教育者じゃないのか…?
 たとえ、それで生徒に憎まれようと。


 ずるい。
 保健室にサボりに来た生徒をかくまってあげるだけで、生徒から見る柊先生の好感度は上がるじゃないか。
 じゃぁ、俺は…?
 授業中、誰にも当てたりせず、注意もせず、ニコニコ笑ってれば、好感度が上がる?
 違うよな。
 ラクでいい…って思われるくらいで。
 そんなものを望んでるわけじゃない。
 
 柊先生が、いろんな生徒から好かれる理由ってのは、それだけじゃないってわかってるんだけど…。
 相手の気持ちにたてるからだろうか。
 サボりたいと思う生徒の気持ちに。
 ただ、サボらせてるだけだったら、いいように利用されるだけだもんな…。
 相手のことをよくわかってあげてるから…?

「…ずいぶん、考えこんでますね…。陸が心配ですか? 拓耶みたいによくしゃべる子が近くにいたんじゃまともに休養出来ないって」
 軽く笑いながらそう言って。
俺の考え方さえも、読み取られてしまっている。
 実際、今、考え込んでたのは別のことでもあるけれど。
 拓耶がいたら、休養できない気がしていたのは事実だ。
「…拓耶を残すのならば、柊先生もあの場にいてよかったんじゃないかと思うんですけど」
 先生には入り込めない友達同士ってのもあるんだろうけど、あそこは一応保健室なわけだし…。
 休まる…ということを考えると、陸にとっては、一人でいるか、もしくは先生も一緒の方がよかったのではないかと思うわけで。
 拓耶みたいなタイプの人間と一緒にいて大丈夫なのだろうか。
「彼らは恋人同士なんです」
「え…」
 なんでもない柊先生の発言。
 だけれど、俺には信じられなくって、足が止まった。
「悩みの原因がお互いでもあるし、それを解消出来るのも彼らしかいないんですよ。俺の出る幕じゃないというか…2人でいる時間を与えてやっただけです」
 柊先生も俺に合わせて足を止め、そう言った。

 なにもわかっていなかった自分が恥ずかしくなる。
 柊先生は、陸と拓耶のために出来る最善のことをしているというのに。
 俺は、なぜそうするのかと、グチグチ言い続けたり。
「…柊先生は、なんでも知ってるんですね」
 そう言う声が、少し震えそうになっていた。
 俺が知ろうとしても知れない生徒のこととか。
 気持ちとかなにもかも、知っている。
「まぁ、保健室来た生徒って暇だから俺にいろいろ話してくれるんじゃないですか?」
 笑いながらそう言うけれど、そんなんじゃないって俺は思った。
 生徒に話してもらえるだけの素質があるというか。
 それは俺にはないもので…。
「科学室にでも行きます? 今、空いてるはずですし」
「…いいです」
 柊先生の誘いを断って、俺は、職員室に戻ろうと背中を向ける。
「暇なんでしょう…? 俺と、一緒にいるの嫌…?」
 俺を後ろから抱きしめて、耳元でそう言って。
 いつもなら、嫌ってわけでもない…とかあいまいに答えるんだろうけど、限界だった。
「…はい…」
 そう言ってしまったとたん、涙が溢れてきていた。
 柊先生は、俺の言葉を無視してなのか、前に回した手でズボンの上から股間をさする。
「っんぅ…」
「拒まないで…」
 耳元で囁くようにそう言うと、ズボンのジッパーを下ろし直に掴み取ってしまっていた。
「っゃっめて…くださ…」
「どうして、俺と一緒にいるのが嫌なんですか…?」
 そんなことを聞かれても。
「言って欲しいんです。わからないな」
 体を反転させられ、向き合わされて。
 じっと見つめられると、逃げれなくなる。
「…泣くほど嫌…?」
 前から、俺のモノを擦り上げられ、つい後ずさった先は壁で。
 逃げれなくなっている俺の首筋に口付けた。
「や……っ」
「教えてよ」
 そう言いながら、手の中に包み込んだ俺のを、何度も擦り上げていく。
「っんぅっ…あ…先生といると…っ…」
「なんですか…?」
自分の無力さを思い知らされて…。
「い…っや…なんです…」
「俺自身は、嫌いですか?」
「…っぁ……そんな…」
 柊先生自身は、すごい人だと思う。
「ずるい…っ」
 つい、そう口走っていた。
「ずるいですか…。よくわからないですね」
 いきなり、俺の前に跪いて。
 手にしたモノに口付ける。
 
 やっぱり俺…。
 嫌がれないや…。
「ん…っ」
 ホントは、廊下だからとか気にすべきなんだろうけど、あんまりそういうことって考えれなくなってきてる。
 見られて困るのは、俺もだけど、柊先生もで。
 同罪ならいいか…みたいな気分になってきてるというか…。
 
 口に含まれ、舌で絡めとられると、背筋がゾクっとして、体が熱くなる。
「ふ…ぅンっ…せんせ…」
 こうやって刺激を送られると、なにも考えられなくて、つい柊先生の髪に手を絡めた。
「ぁ…んぅっ…ンっ…」
 吸い上げられ、唇と舌で強く愛撫されたソコは次第に硬さを増して、精神と体が一致しないのを悔いた。
 どうして…。
 俺って、柊先生のこと、好きじゃないのに、感じるし。
 でも、こんなことされたら感じるのなんて当たり前だろう?
 しょうがない。
 それより、考え込んでる人をやる柊先生の方がおかしいんだ。
「はぁっ…んっ…はぁっ…あっ」
 やめて欲しいなんて、心にもないことは言えなかった。
 ホントは廊下だし、好きかどうかもわからない相手だし、嫌がるべきなんだろうけど。
 気持ちよくって、やめないで欲しい。
「もぉっ…ぁうっ…あっ」
 意識がもう全部、ソコに集中しちゃってるみたい。
 思考回路もめちゃくちゃで。
「ゃ…ぁっ…あっ」
 俺がイきそうなのを分かってなのか、より深く口に含む。
「だ…めっ…いくっ…ぅンっ…ぁっっやっ…あぁあっっ」
 弾け出された欲望を、柊先生は、すべて綺麗に飲み込んでしまう。
「…すみ…ませ…」
「いいえ。いきなりやったのはこっちですし。服、汚れても困りますし」

 どうして、こんなことが出来ちゃうんだろうか。
 本当に、好いてくれてるんだろうか。
 あ…れ…。
 でも、確か、優斗の彼女に手を出したって…。
 そういえば、優斗の悩みは?
 俺ってば、それを聞きに来たのにすっかり忘れてる。
「なにか、悩んでる…? 好きでもない人とはやりたくないとか…」
 俺自身は…。
 好き…?
 好きっていうより、この人がうらやましいと思う。
 と同時に。
 この人が、生徒にいろいろ信頼されてるのが、ずるいと思う。
 ずるいって言い方はおかしいのかもしれないけれど。
 普通の教師よりも保健の先生って立場はいいなぁ…なんて。
 
 柊先生は…。
 俺のこと、本当に好きなんですか…。
 なんて、聞けたらラクなんだろう。
「…柊先生って…いろんな人に手、出すんでしょう…?」
「否定はしませんよ」
 否定しろって。
 でも、されても信じないし、言い訳がましく思うかも。
「…あなたにとって、なんなんです…? やるって…」
 俺は…。
 付き合って仲良くなって。
 一種の愛情表現…?
 そんな風に思うんだけど、男同士だと、違うんだろうか。
 友達同士でも気軽にやっちゃうとか…。
「かわいい犬がいたら、頭を撫でたくなる…そういう感覚と近いかと」
「は…?」
 つい、聞き返す。
 犬の頭を撫でるのと近いって…?
 そりゃ、かわいい子がいたら抱きたい…って思うのはわかる。
 だからって実際、行動に出る人って珍しい…というか、いいのか?
「じゃぁ、俺は、そこら辺の犬を撫でるみたくやられてるわけですか…? その行為って、あなたにとってはそんな軽いものなんです?」
 少し迷って見せてから
「そうなのかも知れません」
 なんでもないみたいにそう言った。
「そ…んな…。柊先生にやられてから、俺…すごい悩んだのに」
「どう悩んでくれたんですか」
 どうって…。
 好きって思ってくれてるから、手を出されたんじゃないかとか。
 それなのに、誰にでも平気で手を出しちゃうなんて…。
「だって…普通じゃないでしょう…? 普通、もっと…仲のいい人同士がするとか…好き合ってる人同士がするとか…」
「宮本先生は、そう考えて受け入れてくれたんですか」
 好き合って…
「っ断れなかっただけですっ」
 好いてくれてるかとかは考えたけどっ。
「もう、俺はそんな軽くやりたくないんです…」
「じゃぁ重くしますか?」
「じゃぁって、なんですか。そうやって切り替えれるものでも…」
 柊先生をすり抜けて、俺はまた一人で職員室の方へと向かう。
 もう先輩とか後輩とか関係なくなってきていた。
「俺にとってやるって行為は軽いものかもしれませんが。でも、割り切ってしかしてないんです。誤解させるようなことはしたことないですよ」
 誤解?
「よく意味がわかりません。すみませんが、俺は割り切れませんでした」
 振り返った先にいた柊先生は、少し難しそうな顔をしていた。
「ほかの人とはあくまでやるだけです。愛情のかけらも見せませんよ」
「どういう意味なんですか?」
 普段ならば、自分で考え込むんだろうけれど、少し苛立っていたせいか、すぐさま聞き返す。
「付き合って欲しいのは、宮本先生だけです」
 にっこり笑ってそう言われ、なにやら言われたこっちが恥ずかしくて、後ずさった。
「宮本先生以外の人とやってるときってのは、楽しむためとか、欲求不満の解消だとか。お互いがそう思ってる人とするんです」
「俺は、楽しむためとか欲求不満の解消のための行為だと思えないんですけど」
「わかってます。宮本先生がそういう考え方なのは…。だから、宮本先生は、ほかの人と違うんです」
 違う…?
 俺が、割り切れてないってわかっててやるのはなんで…?
 犬を撫でるみたいなことじゃないわけ…?
「確かに、俺にとってやるってことは軽いことかもしれないですよ。だからってみんながそういう考え方じゃないのもわかってる。俺が、軽くやっちゃうのは、そう思ってる相手とだけです。こっちが軽いつもりなのに、相手に重く取られたらたまったもんじゃないですからね」
「俺…」
「わかってます。宮本先生が、やるって行為を軽く流せない人だってのはわかります。わかっててあえてやったんです。宮本先生になら重く受け取られてもいいと思ったからですよ」
 …難しい。
「結局、俺は…。柊先生の行為を重く受け取ってもいいんですか…?」
「はい」
 柊先生にとっては、軽い行為かもしれないけど。
 俺にとって、やるってことはすごい重いことで。
 柊先生は、俺にとってやるってことが重いってわかってて、あえてしたわけで…。
 ―こっちが軽いつもりなのに、相手に重く取られたらたまったもんじゃない―
 そう柊先生は言ったけど、俺はいいんだ…?
「それは、俺が、重く受け取ろうが、どうでもいいくらいの人物だからですか…? それとも、柊先生は、俺が重く受け取った気持ちに応えてくれるんですか…?」
「後者です。あなたが重く受け取っても、それに応えられますよ」
 そう…か…。
 って…
 応えられてどうするんだ?
 俺が、重く受け取って。
 言い換えると、俺って…。
 あなたに好かれてると思ってもいいですか…?
 って、聞いてるようなもんで…。
「別に、俺は、だからって…」
 急に恥ずかしくなってきた。なにをどう言えばいいのかわからない。
「宮本先生にとっては重い行為なんですよね。それを俺相手にやってくれたってことは、俺も期待していいわけですよね」
 断れなかっただけ…でもないのかなぁ…??
「俺は、柊先生が変に誤解しようがかまいません」
 恥ずかしくって、そう答えていた。
「じゃぁ、期待させていただきます」
 にっこり笑ってそう言われて。
 なんか、この人にはいろいろかまわないんだと思った。
「柊先生にひとつ…聞きたいんですけど…」
「なんですか?」
「…柊先生は、他の…俺以外の人には、重く受け取ってほしくないですか…?」
「そうですね。勘違いされちゃ困ります」
 俺は、勘違いじゃない…?
「はっきり言ってもらえないとわかりません」
 だんだん、緊張してくるのが自分でもわかった。
「はっきり言えば信じてくれるんですか?」
 軽く笑ってそう言われる。
 信じるかどうかはわからないけれど…。
「宮本先生が、好きなんです」
 そう言われ、どうにも応えられず、俺はつい俯いて柊先生の視線から逃れた。
「あなたのことも聞かせて下さい」
 俺は言ったんだから…と言わんばかりだ。
「宮本先生は、俺のこと、どう思ってくれてるわけですか?」
 柊先生。
 信頼されるに値すべき人物なのだろうか。
「よく…わからないんです…。ただ…生徒にすごく信頼されてるなって…。いろいろ生徒のこと知ってるみたいですし…」
 見習うべきなんだろうか。
「…すごい人だと思ってます…」
「はっきり言ってもらえないとわかりませんね」
 俺と同じ言葉で、柊先生が催促する。
 俺って、いろいろとあいまいすぎ?
 だって、まだ自分の気持ちもよくわからない。
「わからないんです…けど…。俺はあなたと違って…好きでもない相手とそうそう…やれないと思うんです…」
 これって、結局、好きなのか…?
 はっきり言うべきなんだろうか。
 柊先生は、あえてなのか、聞かないでいてくれた。
「そう言ってもらえて光栄ですよ」
 俺の頭を軽く叩いて、職員室とは逆方向へ向かって行ってしまう。
「柊先生…」
「十分です。あなたの気持ちが少しでもわかる事ができて…。体以上に満たされることもあるんです」
 この人って、やっちゃうだけの人ってわけでもないんだよな…。
「…どういたしまして…」
 そう答える俺に、にっこり笑って背を向けた。

 やっぱり、俺は、柊先生という人がよくわからないけれど。
 好きなのではないかと思えるようになってきていた。