「尋臣、明日あいてる?」
 部活後、樋口先生に呼び止められる。
 明日は土曜日。
 とくに予定はない。
「あいてますけど」
「じゃあ俺にちょうだい。その時間」

 2週間ほど前、樋口先生になぜか告白された。
 樋口先生のことは嫌いではないし、自分に好意を向けてくれるのはありがたい。
 けれど、俺はまだ樋口先生のことをよく知らない。
 そう思ってやんわりお断りをしたら、知って欲しいと繋ぎとめられた。

 あのとき、少しだけほっとしたのを覚えている。
 これで終わったわけじゃない、繋ぎとめることが出来たと安堵したのは、俺の方だったのかもしれない。

「なにするんですか」
「なんでもいいんだけど。俺の家来ない?」
「樋口先生の家……ですか」
 相手が普通の男友達だったなら、こんな抵抗はないんだろうけど。
 生徒が普通、先生の家に行くもんなんだろうか。
「嫌なら、やめとく?」
「別に、嫌というわけではないです」
「じゃあ待ち合わせは明日の午後2時、校門前で」
「……はい」

 断れないまま、約束してしまう。
 実際、嫌ではないからいいんだけど。

 ここ2週間、樋口先生には何度か手を出されていた。
 キスされたり、手で抜かれたり、口でされてしまったり。
 自分の意思も固まらないまま、ずるずる流されていいとは思わない。
 樋口先生がどう考えているのかよくわからないけれど。
 この関係を進展させたいからこそ、こうして家に誘ってくれたのだろう。  


 考えがまとまらないまま当日を迎えてしまう。
 校門の前には一台の車が止まっていて、俺が近づくと中から樋口先生が下りて来た。
「助手席乗ってくれる?」
「あ、はい……」
 昼間の挨拶には慣れていない。
 失礼な態度を取ってしまっているような気がしたけれど、促されるがまま、助手席に座り込む。
「ここからだいたい20分くらいだから」
 そう説明を受け、俺は樋口先生に連れられるがまま、家へと向かった。


 移動中、なにを話せばいいのかよくわからなかったけれど、樋口先生がいくつも質問してくれた。
 俺はその質問に答えていく。
 嫌いな食べ物はないかとか、好きな科目はなにかだとか。
「尋臣は、なにか俺に聞きたいことある?」
「聞きたいこと、ですか」

 どうして、俺なんだろう。
 他にもかわいい子やかっこいい子はたくさんいる。
 俺といて、楽しいですか?
 なんてこと、家に行く前に聞くべきではないだろう。
 そう思うと、結局、なにも聞けなくなってしまう。
「わからないです」
 そんなつまらない返答をしたにも関わらず、樋口先生は前を向いたまま、なぜか頬を緩ませていた。
「じゃ、わかったらいつでも聞いていいから」
「はい……」
「……猫と犬、どっち派?」
「……犬です」
「コーヒーと紅茶は?」
「コーヒーです」
 樋口先生はその後も、どうでもいいような質問をいくつも俺に聞いてきた。

 その後、マンションの角の部屋に招かれる。
「ここ、俺の家」
「お邪魔します……」
 靴を脱いでついていくと、ベッドのある部屋に案内された。
 もちろん、ベッドだけではないけれど。
 他にもテーブルやテレビ、それにゲーム機がいくつか置いてあった。
「ゲームとかするんですね」
「まあ、それなりに。尋臣は?」
「結構好きです。でも、こんなにたくさんは持ってないですね……」
「なんかやってみるか」

 樋口先生は、パズル系のゲームが得意らしい。
 俺も苦手ではないけれど、樋口先生には惨敗。
 他にも、格闘ゲームやアクションゲームなど、いろんなジャンルのゲームをプレイしていく。
 まさか樋口先生と、こんな学生みたいな遊びをするなんて。
 なんだか年の離れた友達みたいだ。
 2時間くらい遊んだ頃には、当初感じていた気まずさみたいなものは、だいぶ薄れていた。
「ちょっと休憩な。他にしたいことあるんだけど」
 樋口先生が、ゲームをストップする。
「なんですか? したいことって」
 なにげなく聞き返すと、樋口先生もまたなにげない口調で答える。
「尋臣とキスしたいんだけど」
 あまりにも自然な流れだから、たぶん冗談なんだろう。
「そういう冗談、あまり好きじゃないんですけど……」
「だろうな。そう思った」
「だったらなんで言うんですか」
「冗談じゃないから。尋臣、キスしていい?」
 また、ここに来たときみたいな緊張感が戻ってきた。
 忘れかけていたけれど、この人は俺が好きらしい。
 体目当て……とかではないと思う。
 それなら、もっとラクな相手がいるだろうし。
「あの……していいかとか聞かれるの困ります」
「それじゃあ、聞かずにした方がいい?」
 聞かれずにされたいわけじゃない。
 けれど、聞かれても断りづらい。
 ……相手は先生だし。
「わかりません……」
「俺とキスするの、嫌?」
「それも……わかりません」
「じゃあ、確かめて」
 そう言うと、樋口先生は唇を重ねてきた。

 樋口先生とキスをしながら考えてみる。
 たぶん、嫌じゃない。
 いいかどうかはわからないけれど、嫌ではないのは確かだ。
 樋口先生は右手で俺の頬を撫でながら、左手で頭の後ろを支える。
 逃げられない状態で、舌先の侵入を許してしまう。
「んん……ん……」
 樋口先生の舌先が、俺の舌に絡みついてきた。
 わけもわからずされるがまま舌を味わう。
 ぴったりと合わさった舌が擦れ、ざらりとした感触に思わず身震いする。
「んぅ……!」
 少し息苦しい。
 軽く口を開くと、より深く樋口先生の舌が入り込んできて、余計に苦しくなってきた。
 口の中にあふれて来た唾液を、思わず飲み込む。
 俺だけじゃなく、樋口先生のも混じっているのに。
 そう思うとすごく恥ずかしくて、なんだか泣きたくなってきたけれど、それ以上に、体が熱くなっていた。
「はぁっ……ん……んっ……」
「んー……尋臣くんは、お口の中も大好きなんだ?」
 やっと口を話してくれた樋口先生は、そんなことを言いながら、頬を撫でていた右手の人差し指と中指を、俺に咥えさせる。
「んっ……あ……」
「舌、舐められて気持ちよかった?」
 気持ちよかったんだと思う。
 頷くと、今度は指で舌を撫でられる。
 くすぐったい。
 思わず顔をそむけそうになるけれど、樋口先生の左手が俺の頭をがっちり支えたまま。
「ぁ……ん」
「指で撫でられるのは? どう?」
 舌の上を何度も何度も、樋口先生の指先が行き来する。
 こんなことをされるのはもちろん初めてだ。
 くすぐったいだけじゃないと、気付かされてしまう。
「はぁっ……あ……ん……あっ……」
「んー……横もしようか」
 2本の指が左右に分かれたかと思うと、今度は両側から舌を挟み込む。
「あっ! んん!」
「ああ、びっくりした? 下は、いけそう?」
 樋口先生の言葉に応える余裕はない。
 指先が、舌の横側から下へと移動していく。
 またくすぐったいようなもどかしい感触。
 下あごを撫でた後、もう一度、舌の上に戻って来た指が少し奥の方まで入り込んできた。
「んぅ……あっ……ん……んんっ」
「気持ち悪くない?」
 気持ち悪くはない。
 軽く頷いて返事をする。
「じゃあ、気持ちいい?」
 これは、気持ちいいんだろうか。
 自分でもよくわからなかった。
 口の中がむずがゆくて、なんだかさっきからずっとゾクゾクしている。
「ぁっ……ん、んん……あっ!」
「わかんねぇなら教えてやる。お前は今、気持ちいいんだよ」
 少しむず痒いような、妙な感覚から逃れようと舌を動かしてみる。
「んぅんん……んっ……あっ!」
「ん……もっと擦って欲しい?」
 言われて気づく。
 俺は今、擦って欲しいんだと。
 頷くと、樋口先生は指で俺の舌を優しく撫でてくれた。
「あ……あっ……ん、んぅっ……」
「すっげ、気持ちよさそうな顔すんのな」
 ぼんやりする頭で、なんとか樋口先生の言葉を聞き取るけれど、どう答えていいのか。
 樋口先生といるとわからないことだらけだ。
 そんな俺を置いてきぼりにして、2本の指が何度も俺の口内を出入りする。
「あっ……ん、ぁあ……はぁっ……せん、せ……あっ……あぅ……」
「尋臣なら上手に出来そうだな」
 いったいなにが上手にできると言うのだろう。
 その答えは、すぐにわかった。
 樋口先生は俺の前で、自らズボンのチャックを下ろしてしまう。
 取り出されたものはすでに勃起していた。
 俺の口から引き抜いた唾液まみれの指で、勃起したものを擦りあげていく。
 樋口先生のそれは、さらに質量を増していった。
「出来そう?」
 なにを求められているのかはなんとなく理解できる。
 さすがに抵抗がないわけじゃない。
「そんなの……できないです」
「そう」
 とくに無理強いする気はないらしい。
 ほっとしたのもつかの間。
「そんじゃ、下のお口に頼もうか」
 そう言うと、樋口先生は俺の体を抱き上げた。
「あ……」
 キスしたせいか、力が抜けていた俺はされるがまま。
 この人は、意外と力があるらしい。
 ベッドに乗せられたかと思うと、いとも簡単に押し倒されてしまう。
「あの……」
「脱がせていい?」
「っ……だめ、です」
「ふぅん」
 樋口先生に顔を近づけられ、俺は思わず視線を逸らした。
 横を向く俺の耳に、樋口先生の吐息がかかる。
 ぞくりと体が震えあがったかと思うと、唐突にズボンの上から股間のものを撫で上げられてしまう。
「んんっ!」
「尋臣も、少し硬くなってんな」
「そん、な……」
 反射的に樋口先生の方に顔を向けると、また俺の口内に指先が入り込んできた。
 今度は、俺の股間を撫でたまま。
 この人は、両利きなんだろうか。
 さっき樋口先生のモノを擦りあげていた指先……そう思うと、無性に恥ずかしい。
 恥ずかしいけれど、気持ち悪いだとか不快な感じはない。
「はぁ……あ……あっ……」
 なんで、不快じゃないんだろう。
 考えようと思っても、股間を撫でられているせいで頭が働かない。
 樋口先生の手つきは、なんだかいやらしくて、どんどん体が熱くなってきてしまう。
「ふぅ……んんっ! あっ……あ……ん……っ!」
「ここ、直接撫でた方が気持ちいいと思うんだけど」
 布越しじゃなく、直接手で……。
 たしかにそっちの方が気持ちいいだろうと頷いてみせる。
 決して、そうされたいという意味ではないのだけれど。
 ただもう一度、樋口先生が俺に尋ねる。
「脱がせていい?」
 今度は少し強めに、握られながら擦られて、体がビクリと跳ね上がった。
「はぁっ! あっ、あっ……んぅっ!」
「ていうか、脱がすよ」
 脱がされる。
 そう思っても、樋口先生の手を止めることが出来ないでいた。
 緊張しているせいか、はたまた期待しているせいか。
 自分の感情なのにわからない。
 その隙にズボンと下着を脱がされ、足も開かれる。
「あ、あの……っ!」
「うちならたっぷりローション使ってやれるからな」
 樋口先生は、枕元に転がっていたビンを手に取ると、容赦なく俺の股間に中身を垂らしていく。
「ひぁっ……んっ……ん、つめた……」
「ローションが冷たいっていうより、尋臣のコレが熱いんだろ」
 ローションまみれの性器が、樋口先生に掴まれてしまう。
 ただ掴まれただけだというのに、背筋がゾクゾクしててたまらない。
「あ……ぁあっ……せん、せ……ん……!」
「とりあえず一回イっとく?」
 もちろん答える余裕などないのだけれど、俺を待つことなく、樋口先生の手が上下に俺のを擦りあげていく。
「ああっ、あっ……はぁっ……あっ、ゃあっ!」
 手が動かされるたび、ぐちゅぐちゅと濡れた音が耳に着いた。
 ローションのせいであって俺のせいじゃない。
 けれど濡れた音がいやらしくて、羞恥心を煽られる。
「あっ、んんっ……せんせ……っ……あっ!」
 少し強めに握られたまま、根本から先端に向かって、樋口先生に与えられる圧迫感が移動するたび、射精しそうになる。
 なにか掴んでないと耐えられそうにない。
 俺は上半身を捻らせ、傍にあった枕を抱き寄せた。
「ぁあっ、あっ……んっ……ひぁっ、あっ!」
「きもちいい……?」
 俺は思わず、樋口先生の言葉に頷く。
「はぁっ……あっ、きもち、い……ああっ、んっ!」
「いきそ?」
「んんっ、いき、そぉ……あっ……ああっ!」
「そんじゃ、いこうか」
 優しい口調でそう言うと、樋口先生はさきほどよりも速いスピードで手を動かしていく。
 あれ以上の刺激を与えられるとは思っていなくて、体がガクガク震え出す。
「ああっ、あっ……いくっ、ひぁっ……あぁあああっ!」
 すぐに射精を迎えてしまい、体中から力が抜けていった。

 樋口先生の手がゆっくりと俺の精液を最後まで絞り出す。
「んぅ……ん……あ……」
 体はすっきりしたはずなのに、なぜだかぼんやりしてしまう。
 樋口先生に、片方の膝を深く折りたたまれても、どうすればいいのかわからないでいた。
 樋口先生はぬるついた指先で、奥まった窄みを撫で上げる。
「あ……」
 行ったり来たり、指先は入りそうで入らない。
 拒みたいのか、撫でられ続けた窄みがヒクつく。
「前にも2本は入れてるし、とりあえず1本は余裕そうだな」
 樋口先生の言葉が、右から左に流れた。
 理解しないといけないのに、追いつかない。
 ダメだって、言うべきなのに。
 ゆっくりと樋口先生の指先が自分の中に入り込んでくる。
「ひぁっ……あっ……ゃあっ……」
「いや?」
 ローションをまとっているおかげか、俺は痛みを伴うことなく樋口先生の指を受け入れた。
 奥まで入り込んだ指が、わずかに中でうごめく。
「ぁあっ、あっ……あっ……んぅ……」
「んー……気持ちいいねぇ」
 俺がどう思っているのか見透かすみたいに声をかけられる。
 実際、気持ちよくて、俺は甘えた声を出してしまう。
「ふぅ……ぁ……きもちい……あっ……ぁあっ……あっ!」
「気持ちいいのに、どした? 怖い?」
 俺の頬を伝う涙を、樋口先生の指が拭ってくれる。
 さっきから視界がぼやけていたけれど、涙があふれていたのだといまさら自覚した。
 怖いという感情とは違う。
 そっと首を横に振るけれど、感情が追い付かない。
「はぁっ……せんせ……ああっ、あっ、あんっ……んっ、これ……ぁあっ……やうっ」
「2本目、入れていい?」
 2本なら前に入れたけど、あのときもわけもわからないままといった感じだった。
 いまだって、前もって言われたところでどうすればいいのだろう。
 身構えることも出来ないし、断っていいのかどうかもわからない。
 ただ、沈黙もまた答えになってしまう。
「ダメじゃないなら、入れるな?」
 そう言うと、樋口先生の指先が中を広げるようにしてもう1本入り込んできた。
「んぅんんんっ! はぁっ……あっ!」
 2本の指が、内壁を押さえつけながらゆっくりした速度で出入りしていく。
「ひぁっ……ああっ……あっ……あんっ……あっ! あぁあっ!」
「ナカいじられると、たくさん声出ちゃう?」
「ああっ……はぃ……あっ、んんっ! 出ちゃ、う……ぁあっ、あっ!」
「……んー、よく聞き取れなかったんだけど」
「あっ……あ、声……出っ……あぁあっ! ああっ……たくさ、出ちゃ、う……っ!」
 なんとか樋口先生に自分の状況を伝える。
「いいよ。角の部屋だし他所には聞こえないから」
「はぁ……はぃ……っ。ああっ……せんせぇ……っ!」
 樋口先生は、俺のナカを指で掻き回しながら、もう片方の手で俺の頬を撫でてくれた。
 甘やかすみたいにその手つきは優しくて、俺は錯覚してしまう。
 この人に、甘えていいんだと。
「あっ……ああっ、んぅっ……あっ、あっ、いくっ……あんっ!」
「もうイッちゃいそうなんだ?」
 瞼がどうしようもなく重くて、俺は目を伏せながら、コクコク頷いた。
 なにかに口をふさがれて、また樋口先生にキスされているのだと気づく。
 少し息苦しくなる俺を気遣ってか、すぐさま唇は離れてしまうけれど、樋口先生が僕の唇に舌を這わせた。
 なんとなく、つい、理由はよくわからないけれど、俺は舌を差し出していた。
「んっ……はぁっ……あっ、あっ……」
「ん……いいよ、イきな」
 差し出した俺の舌に、樋口先生の舌が絡みつく。
 気持ちいい。
 舌も、撫でられている頬も気持ちいい。
 これまで樋口先生以外の誰にも触れられたことのない箇所だって。
 樋口先生が、俺の知らなかった感覚を教えてくれる。
「ふぁっ、あっ……あぁあっ! あっ、あぁあああっ!」

 絶頂を迎えてビクビク震える俺の体に、樋口先生が圧し掛かってきた。
 心地よい圧迫感が押し寄せてくる。
「大丈夫か?」
 力なく頷くと、ゆっくりと指が引き抜かれて、もう一度、唇を重ねられた。
 この人は大人だし、キスがうまいのだろう。
 だから、俺の勘違いなのかもしれないけれど……。
 大事にされている、そんな風に感じた。

 その後、ぼんやりする俺を残して樋口先生がベッドから降りる。
「ちょっと待ってろ」
 ポンと頭を撫でてそう言い残すと、樋口先生は近くに置いてあったタオルを持って別の部屋へと向かう。
 洗面所だろうか。
 いまのうちに、下着とズボンを履こうと手を伸ばす。
 だけれど、体を起こすことが出来なくて、そうこうしているうちに樋口先生が戻って来た。
「ん……拭いてやるよ」
 樋口先生は、濡れたタオルで俺の足や腹、股間の辺りを優しく拭いてくれる。
「俺、自分で……」
「いいよ、疲れただろ」
 樋口先生の言う通り疲れてしまったのか、力が入らない。
 結局また、されるがまま甘えることにした。

 そういえば俺が脱がされるより先に、見せられた樋口先生のモノは勃起していたけれど。
 視線を樋口先生の下半身に向ける。
「気になる?」
「あ……いえ……」
「いいよ、気にしてくれて。嬉しいし」
「でも俺、樋口先生の期待に……」
「応えてる。だから、応えられないとか言うな」
 なにか応えられた気はしない。
 そもそもそこまで期待されていないということだろうか。
 わからないけれど、樋口先生の口調は簡潔で、なにを求めているのかは理解できた。
 たぶん、応えらないと言ってはならない。
 樋口先生は、言われたくないんだ。
 俺は言葉を飲み込んで頷いた。

 やっと体を起こした俺は、ベッドに座り直す。
「コーヒー淹れてくる」
 樋口先生はそう言うと、今度はキッチンに向かう。
 俺はぼんやりした頭で、なにかした方がよかったんだろうかとか、そんなことを考えていた。

 少しして、すぐ近くのテーブルに樋口先生がコーヒーを2つ置く。
「砂糖、いくつ?」
「あ、なしでいいです」
「……なし?」
「はい」
「それって遠慮してる?」
「いえ、遠慮とかでなく……」
 樋口先生は蓋を開けたシュガーポット片手に黙り込む。
 少し首を傾げた後、蓋を閉めてしまうと、コーヒーを持って俺の方に来てくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 コーヒーのいい匂いに思わず頬が緩む。
 さっそく一口いただくと、口の中いっぱいに香りが広がった。
「おいしいです」
 そう言いながら横に目を向けると、樋口先生はふぅーっと息を吹きかけコーヒーを冷ましているところだった。
「猫舌ですか?」
「……別に」
 樋口先生が、口をつけたマグカップを少しだけ傾ける。
 直後、驚くように顔をしかめていた。
 たぶん、猫舌なんだろう。
 隠すようなことでもないと思うんだけど、なんとなく気になって観察してしまう。

 また冷ますように息を吹きかけて。
 たかがコーヒー一杯に時間をかけていく。
 冷めてきたのか、一気にごくりと飲み込んだかと思うと、それでも顔をしかめていた。
 もしかして、そもそもコーヒーが苦手なのだろうか。
 シュガーポットを用意していたくらいだし、普段はたくさん入れて甘くしているとか。
「……甘いコーヒーの方が好きですか?」
「そうかもしれないな」
「砂糖、入れないんですか?」
「今日は入れない」
 なんでだろう。
 俺が尋ねる前に、樋口先生が答えてくれた。
「尋臣がブラックだから」
「別に俺に合わせてくれなくても……」
「尋臣が好きなものの味を、確かめてんだよ」
 樋口先生はまた、コーヒーを飲みながら、変な顔をしていた。
 無理しなくていいのに。
 そう思うと同時に、なんだか樋口先生がかわいらしく見えてしまった。

「いまさらなんだけど……」
 口元をマグカップに近づけたまま、樋口先生が切り出す。
「好きな人とかいたりする? 俺以外で」
「あの、付き合ってる人はいないって前に言いましたよね」
「好きな人は別だろ。付き合ってないけど好きなやつがいるとかあるし」
 樋口先生は俺を見ていなかった。
 まだ半分くらい残っているコーヒーを見つめている。
 見つめながら、やっぱりどこか変な顔をしていた。
 コーヒーが苦いからか、それとも別の理由か。
「好きな人、いないですよ」
 そう伝えると、樋口先生はコーヒーを見つめたまま、それでも口元が笑っていた。
 俺の一言が、そんなに響いているのだろうか。
 そう感じた瞬間、心臓がドクドクと音を立て始めた。
「じゃあ、俺も含めて、好きな人いる?」
 ずるい質問だ。
 結局『俺のこと好き?』って聞いているのとかわらない。
 かわらないけれど、答えやすい。
 いつの間にか、樋口先生はコーヒーから目を離してこちらを見ていた。
 期待しているような目。
 その期待に、俺は応えられるのかもしれない。
「……好きな人……いるんだと思います」
「……そっか」
 樋口先生は、それ以上追求してこない。
 ただ、嬉しそうに微笑みかける樋口先生を見て、俺は自分の気持ちを確信した。