初めて悠貴先輩を見たのは、真夜中だった。
まだ、入学して間もない頃。
中学時代の友達と遊んだ俺が、寮へと戻るころには夜中の12時を過ぎていた。

そのとき、寮の隣にある学校の弓道場の明かりがついているのに気づき、たんなる好奇心から、そちらへと足を進めていた。

そっと覗き見ると、私服で矢を射る一人の人。
それが悠貴先輩だった。

私服…ということは、弓道部員じゃないのか…。
そう思ったが、なんにしろ、この時間自体おかしいだろう。
学校帰りに寄っただとか、部活の延長とは思えない。
一度、寮に戻ったのか。

かっこいい人で。
矢を射る瞬間、目を少し細めて的を見る姿が、俺を魅了させていた。

だけれど、違和感を感じる。
なんだろう。
背筋は伸びててきれいだけれど、どうにも姿勢がおかしいような気が。
俺だって、弓道に詳しくないからちゃんとわかるわけじゃないけれど。

その姿に目がいってしまい、しばらく気づかなかったが、矢先を見ると、ギリギリ的に当たるのが一番いいみたいで。
真ん中なんてもってのほか。
外した矢の方が多かった。

それでも別にかっこ悪いとは思わないけど。
なんか少し拍子抜け。

しばらくその姿に見入っていると、
「…なにしてんだ」
後ろらそう声がかかり、一瞬、体が跳ね上がる。
「あ。驚かせてごめん」
振り返った先にいたのが、樋口智己先生だった。
たぶん、普段だったら足音とかで気づくんだろう。
こんな静かな夜中だしなおさら。

それほどまでに、俺は悠貴先輩に見入っていたんだと、自覚した。

「ちょっと…明かりついてたから気になっただけ」
「そうか…」
「あんたは…?」
「…まぁ、一応、弓道部の顧問だし? あいつ、部員」
はじめは、警備の人かなんかだと思っていたが、そこでやっと、先生だということを知った。
「…止めたりしなくていいわけ?」
「別に…。練習してるやつ、止める必要性ないし」
「でも、こんな夜中に…危ないとか、ないわけ?」
別に、寮はすぐ隣だし、物騒だとかそういうわけでもないけど。
でも、普通、とめるだろ、先生ってのは。
「…俺が見てるから、大丈夫だよ」
少しだけ、呆れるように言った。
呆れた感じは、俺に対してじゃなくって、悠貴先輩に対してだろう。

「あの人は、なにをしてるわけ?」
「どう見える?」
「…弓道の練習には見えるけどね、一応」
「…もったいないよな…。あいつ、すっげぇきれいな手、してんだぜ? あの手で…想像つかないような力強い演奏すんだよ…」
いきなり何を言い出すんだか。
不信な目を向ける俺に気づいたのか、
「ピアノね。うまいんだよ、あいつ。弓道なんてしなくていいのに」
「好きでやってんならいいんじゃないの」
「…好きで…か…。そうだな…」
少しため息交じりにそう言って、樋口先生は、視線を悠貴先輩に向けた。

樋口先生はなにも言わなかったけれど、なんとなくわかった。
悠貴先輩は、別に好きで弓道をやってるわけじゃないんだろう。
今も別に楽しそうでもないし。
どちらかといえば、つまらなそう。
しょうがなく練習しているようにも見えた。
的にも全然、当たらないし。
「なにをしてるわけ…?」
もう一度、さっきと同じことを口走ってしまう。
「弓道…。好きになりたいみたい」
「なんでさ」
「弓道部員だから? 弓道が好きでもないのに、弓道部に入ってるのとか、おかしいだろ」
「なんで、そうまでして弓道部に入るわけ?」
好きじゃなければ入らなければいいのに。
「…うん……」
答えにならないような返答をして、そのまま、なにも教えてくれなかった。

「ねえ。ずっと見てるわけ?」
「うん」
「ほっとくか、帰らせるかすればいいのに」
「まぁな…。でも、あいつがあぁなのって、俺のせいだからな…」
俺に教えるわけでもなく、そう呟いて。
悠貴先輩を見る樋口先生の表情が少し悲しそうにも見えた。
「どうして?」
そう聞いて。
俺に向き直った樋口先生は、まるでなにもなかったような普通の表情。
さっきのが見間違いだったのかなって思うくらい。
「俺は、顧問だから」
だからなに?
顧問だから?

「…まぁいいや。俺は帰るよ」
どうでもいい。
そう思って、考えることを放棄し、俺は寮へと戻った。



「たっだいま」
「おかえり。遅かったね」
そう出迎えてくれたのは、ルームメイトの総一郎先輩。
「ちょっと寄り道。学校で弓道部の先生に会ったんだ」
「学校、寄ったんだ?こんな時間にあの人、なにしてるわけ?」
「…弓道場のとこにいたけど」
悠貴先輩が、弓道の練習をしていたことは言わないでおいた。
「話した?」
「うん。話したけど」
「かっこいい人だろ、樋口先生。すごく生徒に人気、あるんだよ」
樋口先生の名前をそこでやっと知る。
やっぱ、人気のある人なんだ…?
「そうなの?」
「そう。だから、弓道部は、部員に困らないってね」
「なにそれ。あの先生、目当てで入る子がいるってこと?」
「そう。もちろん、真面目に弓道やりたがってる人もいるけど?」

なるほどね。
やっと、俺の中でつながった。
悠貴先輩は、樋口先生のことが好きで、弓道部に入ったんだろう。
だけれど、他にも理由を作るべく、弓道の練習をして。
自分は、弓道が好きだから、弓道部に入ってるんだって。
もしくは、弓道が得意だから、弓道部に入ってる。
そう言いたいんだろう。

だから、誰もいないあんな時間に練習して…。

向いてないと思うんだけどな…。
それでも、練習するんだ?

樋口先生も、それに気づいてるんだ。
だから、そっと、見守ってあげてるんだろう。



俺はまた、次の日の夜。
弓道場へと行ってみた。
やっぱり、悠貴先輩と、それを見る樋口先生がいた。
「樋口先生」
「あぁ。昨日の…」
「真綾だよ。観月真綾。あの人は、なんて名前なの…?」
「あいつ? 深山悠貴。今、2年だよ」
そのとき、初めて名前を知った。
「ふぅん…。あのさ。樋口先生って、付き合ってる人とかいるわけ?」
いきなりなにを聞くんだと言わんばかりに一瞬、きょとんとされる。
「ねぇ」
俺が催促すると、やっと正気に戻ったように笑顔を見せて
「いるよ」
そう教えてくれた。
なんだか、ショックで、俺はそのとき少し泣きたい気分になっていた。

だって、そうだろう?
悠貴先輩が、あんなにがんばって樋口先生のためにしているのに。
この人にはもう付き合ってる人がいるんだ。
「…悠貴先輩に、教えてあげなよ」
樋口先生は、俺がどこまで理解してるか、わかってくれたんだろう。
「真綾は、どうしてそう思う…?」
少し間をおいてから、静かにそう言った。
「だって…。かわいそうだよ」
「ん…。俺もそう思った」
「だったらっ」
「伝えてある」
俺の言葉を制するようにして、そう言って。
そっと、髪の毛を撫でてくれた。

「じゃあっ…なにして…っ」
「…俺にはさ…。やめろとも言えないし。優しい態度は余計、傷つくだろうし。そっと見守るしか、出来ねぇんだよ」
少し冷めた口調で、そう言うけれど、撫でてくれる手が、ものすごくあったかく感じた。
「…でも…っ…」
「なんで、真綾が泣くんだよ」
困ったように笑いながら、俺を抱き寄せて、なだめてくれる。

「なにやってんだよ、あの人…っ」
そうとしか、言えなかった。



初めは同情心だったのかもしれない。
それから気になってしょうがなかった。

好きになったのは、そのあとなのか。
初めてみたときから、そういった気持ちがあったのか、今となってはわからなかった。



しばらく、落ち着くまで、樋口先生はそっと俺を抱いてくれていた。
俺を解放すると、
「…やさしいね、真綾は…」
そっとそう言いながら、頭を撫でてくれる。
「…別に…」
俺は、悠貴先輩に視線を戻していた。
樋口先生もまた、悠貴先輩に目を向けているようだった。
「俺はさ…今の彼女が大事だから…。あいつには優しくすることなんて出来ないんだよ。変な期待を持たせるわけにもいかないし…」
「ん…。しょうがないよ…。いいよ…。俺が、あの人、救ってあげるから…」

なに言ってるんだろうって、自分でも思った。
会って間もない…というか、見ただけの人に対してこんなこと…。

でも、俺は、あの人が好きなんだ。
一目ぼれとか、運命とか。
そういう今まで馬鹿にしてきたものを、少しだけ信じてしまったり。
馬鹿らしいと思いつつも、俺は今、ハマりこんでいるんだろう。

あんな風に、好きな人のために、どうにもならないとわかっていても突き進む姿が、かっこよくて。
それでいて、別に、おおっぴらにするわけでもなく。
自分の中だけでのけじめみたいなもんなのだろう。

「…樋口先生…。俺も、弓道部、入っていい…? 別に弓道、出来るわけじゃないけど…」
「…もちろん、いいよ。…ありがとな…」

俺が部員になるから…
それに対しての『ありがとう』ではないのだろう。
悠貴先輩のことだ。
「別に…」
俺は、あの人が、好きなんだ。
それだけ。
「あいつ、結構、意地はったりすると思うけど…」
「…大丈夫だよ。俺…強いから…」
でまかせだった。
強くなんかない。
強いフリしてるだけ。
「…俺…あの人の恋人になるから…」
悠貴先輩の方を見たまま、俺はそうつぶやいた。