智巳の顔に殴られたようなアザが残っていた。
あんなの教師が残してちゃ、結構問題だろ。
まぁ、適当な言い訳するんだろうけれど。

理由とか、聞いていいものなのだろうか。

なんとなく聞けずにいたが、数学の時間。
桐生先生と目が合い、少しだけ申し訳ないような表情をされる。
…あぁ。
この人、関係あるんだろうな。

雪之丞に手を出したから、殴られた…とか。
桐生先生は、雪之丞のことがどうやら好きみたいだし。

それなら理由として納得はいく。

…桐生先生は智巳に弱いとか言ってたけどな。

智巳を見かけたが、なんとなく浮かないような表情。
いつもといえばいつものことだけど。
なんとなく違う。
悩んでるような、そんな感じ。


どうにも気になって、俺は放課後に智巳を訪ねた。

「…どうした、尋臣」
「…少し、時間いいですか」
「いいけど」
そう言って、俺と一緒に数学準備室の方へと向かう。

「学校で、尋臣から声かけんの珍しいよなー」
歩きながら、智巳が俺に聞く。
自分の数学担当でもない智巳に声をかけるのは、かなり抵抗があった。
部活を引退した今、なおさらだ。

いつもなら、離れて歩く所だが、今日は周りよりも智巳が気になって、二人肩を並べて歩いた。
「…アザが気になるわけ?」
やっぱり、予測できるのだろう。
「それもですけど…なんだか、浮かない表情で…」
「ふぅん…。わかるんだ?」
「え…?」
「あんまり表に出さないようにしてたんだけど。さすが尋臣」
そう言うと、急に足を止める。

「樋口先生…?」
「…家…来いよ」
「…でも、明日も普通に学校ですよ?」
「泊まれって言ってるわけじゃない。すぐ帰っていいから」
「…いいですけど…」

本当は、車への乗り降りで、他のやつらに見られないかとか心配事はたくさんあったが、俺は、いつもと違って気力のないような智巳が気になったこともあり、行くことにした。

車の移動中は、なんでもない話題を振られた。
本題をあえて避けるような。
そんな感じだったから、俺も聞かないようにしていた。

ほとんど、頭に入っていない状態だったが、それでもかまわないくらい、適当な話題だったと思う。


部屋に通され、ベッドを背もたれにするように2人、床に座る。

それが合図だったみたいに、
「…アザは、桐生に殴らせた」
急に智巳は本題に入った。
「殴らせ……っ?」
「昨日、雪之丞に手、出しただろ。殴られるような悪ぃことしたって、わかってるし。だけどあいつは優しいから、自分からは殴らないでいてくれるんだよ。だから、俺から殴れって言ったわけ」
ため息をついて智巳は、不意打ちで俺へと口を重ねた。
「んっ…」
拒もうとする間もなくその口は離れて、智巳は珍しく切ないような表情を俺に見せる。
「…智巳…?」
「尋臣は俺が好き?」
「…いまさら、なに言ってるんですか」
「俺はお前が好きだよ。誰よりも好きだから。…理解しといて」
「……はい…」
なにを言われるのかわからず、妙な緊張が走った。

「俺と桐生が仲いいのは、知ってるだろ」
よく一緒に話しているのを見かけるし、それはわかっていたから、頷いた。
「…職場での同僚とかそういうレベルじゃなくって、あいつとは高校の頃からの仲なんだよ」
「高校が、一緒だったんですか…」
「そう。俺の方が一つ後輩だけどな。…中学は違ったけれど、部活の大会で俺は桐生のことを知ってて…その頃から、俺の憧れの人だったわけ」
少しだけ、胸が締め付けられるような感覚。
だけれど、さっき智巳が言ってくれた『誰よりも好きだから』という言葉を思い出して、心を落ち着かせた。
「桐生はエスカレーターの中学だったから、高校もそこなんだろうなってわかったし、追いかけて同じ高校に行った。けど、思った以上にあの人、モテてね。それに、桐生には好きな相手がいて。どうしても忘れられないんだと。だから、俺も諦めた。もう10年以上前の話だよ。いまでもたぶん、桐生はその人のこと、忘れてないんだろうけれど、その人は、もう戻ってこなくて。
…桐生も、気持ち切り替えたのか、忘れられない相手がタチなのに対して、雪之丞はネコだから、別物として見れるのか、そこら辺、定かじゃないけど。

2人が付き合うようになって。
…それは桐生にとって、過去を清算出来たって気がするし、いいことだと思うよ。
ただ、なんとなく、俺がその手助けしたわけでさ。……少し腑抜け状態だったりするわけ」
そう教えてくれた。
「…智巳は…いまでも桐生先生が好きなの…?」
「…あいかわらず憧れてはいるよ。嫌いじゃない。だけど、ホントにあいつが好きな人には、敵いそうにないし。雪之丞は、女役だからいいんだろうけど。俺も、桐生が好きだった人も、桐生のことを抱く側だったから。重ね合わせられたくないし。いつまでたっても、一番になれないし。…万が一、いまさら、来られても二番以下に見られてたことに変わりはないから、俺も、行く気ないし。
俺は今、尋臣が一番好きなんだよ。
桐生がどうとか関係なくな。
俺自身、桐生と付き合う気なんてもうねぇし。
だけどさ。なんで俺、わざわざあいつのために雪之丞との仲、取り持たせてんだろうって。馬鹿らしくて。よくわかんなくなった」

横目で伺った智巳の表情は暗くて。
まともに見ることなんてもちろん出来ないし。
さりげなく視界に入れていた。

「…智巳…本当に俺でいいの?」
「お前が、落ち込むなよ。いいに決まってんだろ。そんなつもりで話したんじゃねぇし。…でも…聞いて欲しかったな」

「俺…智巳のこと、一番好きだから…」
「ありがとな」
「桐生先生んとこ、行かないで欲しいって思います」
「行かねぇよ。あいつが本当に好きな人と仲がいい頃、見てるから。俺じゃ駄目だなって思った」
「それじゃあ、よかったらどうするんですか? 桐生先生が、求めてきたら…っ」
「…求めるはずないだろ。あいつは雪之丞を可愛がるだろうし。万が一、男が欲しくなっても、俺には求めないよ。振った男相手にするわけないだろ。もっと都合のいい男、あいつにはたくさんいるから」
自分を振った相手の、恋愛を取り持ったわけ…?
胸が締め付けられるのは、智巳が傷ついているからなのと、智巳が、俺以外の人を好きだったという事実を突きつけられたからだ。

そりゃ、その歳で、初めての恋愛なわけないだろうし。
桐生先生以外にも、相手はそれなりにいたんだろうけど。

「もしも、来たらどうするんですか…?」
「いまさら…だろ。お前が心配するようなことにはならねぇよ。俺は今、お前が一番なんだし」

そう言ってくれ、それでもその後、ため息をついていた。
「智巳…」
「……悪ぃけど、平気なフリしてんの疲れたから。泣いていい…?」
いつもの冷めた口調で。
思いもよらないことを言う。
またいつもの冗談なのかなとも思った。
「はい…」
一応、そう答える俺の膝元へ、寝転がる。
俺とは逆方向を向くもんだから、表情は伺えなかった。
どうすればいいのかわからず、とりあえず智巳の髪をそっと撫でた。


「ホントはな。桐生はずっとフリーでいるんじゃないかって思ってたんだよ」
「…はい」
「俺とはもちろん、忘れられない人がいるからって、拒み続けるもんだと思ってたから。
…そりゃ、抱く側と抱かれる側じゃ違うかもしんないけど。…雪之丞を気にしてる桐生が初々しくてさ。ちょっと手助けするつもりが、終わってみれば思った以上にショックで。

…ごめんな、尋臣…」
「いえ…俺は、平気です…」

智巳がどこかへ行ってしまうんでなければ、俺は大丈夫。
「桐生先生と、どうにかなりたいって思ってるわけじゃないんですよね?」
一応、念のためにまた確認してしまう。
「あぁ。ただ、フリーでいる気がしてただけだから。俺自身はもうずっと前に諦めて、そのまま、なにかしようとは思ってないし。向こうから来ても、俺は過去を消していまさら付き合う気もない」
「智巳…」

「久しぶりに、誰かに甘えたくなった」
俺を見上げる視線は、なんだかかわいらしく思えた。

完璧だと思っていた智巳が、俺に見せてくれた弱さの原因は桐生先生で。
少しだけ、嫉妬してしまう。
だけれど、これはきっと、桐生先生にも見せていない弱さだと思うから。
俺だけが知る智巳だって思っても、自惚れじゃない…かな。


「…泣いても、いいですよ…」
「泣かねぇよ」
軽く笑ってそう答え、それでも智巳はまた、俺から顔を背けた。

「ごめんな、尋臣…」
また、俺に謝ってくれる。
桐生先生が原因で気落ちしていることと、俺に甘えることに、罪悪感を感じているのだろう。
「いいですから…」
「本当は、ここまで自分の感情さらす気は、なかったんだよ。っつーか、知らない方がいいってこともあるだろ。過去の俺の恋愛なんて、お前に言うつもりなかった。

…言えばお前だって、気分害すだろうし。
一人で、腑抜けになって、それでもなんでもないフリしてやり過ごせば、しばらくすりゃ忘れるだろうなって思ったし。

…お前が、俺のこと、心配なんてするから…」
智巳は俺の手を取りそっと掴んだ。
俺もその手を握り返す。
「一人で、悩まないでください」
「お前に申し訳ないだろ」
「そんなこと、気にしなくていいのに…」
「…気にするだろ。こんな理由で俺が腑抜けてんだよ。本当は、お前に甘えていいはずがねぇんだよ」
「いいですよ」

智巳は、なにも答えてくれなかったが、その代わりみたいに掴んでいた手に力が入った。


「ごめんな…」
もう一度、独り言のようにつぶやいて。
俺の膝の上で寝返りを打ち、こちらへと顔を向けた。
上から、表情はわからなかったけれど。

そのまま会話はなく。
掴まれた智巳の手から力が抜けないのを感じていた。


もし、智巳が俺に話してくれなかったら。
俺だって、こんな風に不安に思ったり、気持ちが暗くなることもなかっただろう。

でも、そうだとしたら、智巳は一人で抱え込んで我慢して。
智巳がそんな状態なのに、俺だけなにも知らずに、生活してるだなんて。
そんなのはやっぱり受け入れがたい。

俺にとって不都合なことや、気落ちすることであったとしても、俺に頼って欲しいと思う。

大体、俺自身、智巳が桐生先生のところへ行ってしまうのではないかという心配よりも、智巳がこれだけ苦しんでいることの方が心配なわけだから。
話して少しでも気分が落ち着くのなら、構わない。

智巳が、桐生先生のところへは行かないと断言してくれたというのもあるけれど。

一番好きだと言ってくれた言葉を信じているから。

しばらくして、上を向いた智巳は、めずらしく不安そうな顔をしていた。
「…智巳?」
「……100%自信持てるヤツなんてそうそういねぇんだよ」
「え…?」
「9割以上、大丈夫だと思ってるけど。完全な自信はない」
「…なんのことですか」
「ずっと…俺のこと一番に想ってて欲しい」

いつもの軽い感じとは違っていた。
真剣…というよりも、不安が入り混じっているような、そんな感じ。

ずっと、俺に一番に想われ続ける自信がないってことか。
「…智巳が、俺のことを一番に見てくれる限り、大丈夫です」
「一番に決まってる」

「…俺も、不安ですよ…。智巳の言うように100%の自信なんて持つのは難しいです」
智巳はやっと少しだけ笑みを見せる。
「尋臣を1番に想い続ける自信は100%あるな」
「…じゃあ、大丈夫です。ずっと…1番同士です…」


「……ありがとう」
智巳は、小さな声でそう呟く。
強く手を握り合ったまま。
空いた手で体を起こす智巳と、気持ちを確認するように、そっと口を重ねた。