「…顔色、悪いですよ」
 そう声をかけてきたのは智巳だ。
「…なんでもない…」
「そういう風には見えないですけど。…心配なんですよ…」
「あぁ。ありがとな。でも…大丈夫だから」
「そんなに、俺は頼りないですか」
「……そういうわけじゃねぇけど…。駄目だと思うから…」

 智巳は、少し黙って、更衣室へと手をかける。
 ガチャっと、鍵のしまっている音が響いた。

「…誰か、いるんですか…」
 俺に言うでもなく一人つぶやくと、俺の手を取って、準備室へと引っ張っていった。
 ビート版やそのほかの道具がある中へと入り込み、智巳は内側から鍵を閉めた。

 上の方に小さな天窓があるだけ。
薄暗い中、智巳は俺を壁に押し付ける。

「なにが駄目だと思うんですか…」
「だから、お前に頼るのがだけど」
「頼って欲しいって言ってるのに?」
「…お前、俺のこと好きなんじゃねぇの…? 俺は…自分が好きだった人に飛ばれて、その慰め役にお前、使いたくねぇし」
衝動的に智巳の家まで助けを求めに行ってしまったことを悔いた。

智巳は、俺を壁に押し付けるようにして、強引に口を重ねた。
「んっ……」
 自分の体が冷えているせいか、ものすごく熱く感じた。
 智巳の舌が、俺の舌に絡まって。
 手が、股間を撫で上げる。
「っ…くっ…やめ…」
 ゆっくりと水着の中に入り込んだ指先が、奥へと進み、中へと入り込んでいた。
「っんっあっ…んーっ…」
 押し退けたいのに、力が入らない。
 

 首筋を、智巳の舌が這って、その箇所が熱くて、ゾクゾクしていた。

 入り込んだ2本の指が、俺の中で蠢いて。
 気が遠くなりそうだった。
 拒もうとしてたのに。
 拒めなくなる。
「ぁっあっ…んぅっ…くっンっ…」
「…そんな辛そうな表情見せられて…黙って見守ってろって?」
また、口を重ねられて。
強引だけれど、暖かくて。
こいつってホントに俺のこと好きでいてくれるんだなって。
そう思えるようなキスだった。
アキラさんとはまた違った感じ。
あぁ、俺また、アキラさんとこいつ、比べてるや。

指を引き抜いて。
智巳は少しだけ距離をとった。

「…智巳…?」
「…平気なつもりでしたよ…。しばらくしたら深雪先輩は好きな人のことを忘れてくれるって。そう思って。 …だけれど、俺の方が無理っぽいです。深雪先輩はやっぱり、俺のこと、見てないですね」
俺に、苦笑いを見せて。
智巳はそう言った。

「なに…それ……」
「…頼って欲しいって思うけれど。たぶん、俺では力不足なんです。深雪先輩が好きだった人を、忘れさせることも出来そうにないし、深雪先輩を、満足させることも出来そうにないし。…それ以前に、誰かと俺を重ね合わせてる深雪先輩を、抱くなんて…無理みたい」
「…違っ…」
 なにを言いたいのかわからないが、否定の声が出た。
「…伝わっちゃうんですよ。深雪先輩が俺じゃない人のこと考えてるって。別の人の名前なんて呼ばれた日には、俺は立ち直れませんよ」
 別の人の名前。
 ナツとしたとき、アキラさんの名前を呼んだことを思い出した。  

「…俺が忘れさせてあげる…なんてかっこいいこと、言えませんから。好きだから、深雪先輩とやりたいって思うけれど、他の男のこと考えてる深雪先輩相手にしてると、悲しくなりますよ…」

 なにも言えなくて。
 黙っている俺の肩をポンっと叩いて。
「…部活、戻ります」
 智巳はそう言って、部屋を出て行った。


 アキラさんは、俺にとって特別な人だから。  
忘れることなんて出来そうにない。

 智巳のことも。
 たぶん、俺は好きになりかけてるんだろう。
 涙が溢れた。
 俺が、アキラさんを忘れられないせいだ。
 智巳まで失ってしまう。
 傍にいて欲しいのに。
 頼りたいのに。

 頼って欲しいって言ってくれた。
 けれど、それが智巳を傷つけるって、わかってるから、俺は頼れないし。  


「…深雪先輩。こないんですか」
 少しして。
 ドアが開かれる。
 しゃがみこんでいる俺を、呆れたように見下ろしながら智巳がそう言った。
「…っ…智巳…」
「俺は、あなたをおっかけてここまで来たんですよ。あんまり情けない姿、見せないでください」
「…ん…」
「まぁ、深雪先輩は、覚えてないんでしょうけどね」
「…覚えてるって…」  
そう言った俺の言葉が意外だったのか、智巳が黙り込んで沈黙が少し続いた。
「…覚えてるって…?」
 智巳がやっと俺の言葉を復唱する。
「…200mのフリーで。いつもとなりだったから…」
 いつもつっても、そんなにも回数があったわけではないが。
「よく…覚えてますね…」
「…まぁ…ね…」
「もっと、素直に諦めさせてくれればいいのに…。どうしてまたそういうこと、言ってくれるんですかね」
 苦笑いするような口調でそう言って。
 俺の頭に手を置いてくれた。


「…智巳…。俺の傍にいて…」
 なに、甘えたこと言ってるんだろう。
 恋人にはなれないし、頼れないし。
 恋愛感情は持たない。
 そう心に決めたけれど、傍にはいて欲しい。
「…どういう意味ですか」
「…友達…として…」
 そう言うと、ため息を智巳がつくのがわかった。
「…ほんと、わがままですね、深雪先輩って。俺が好きだと言えばまた重荷に感じるくせに、手放したくないって、そういうことなんだ?」
 そういうことなんだろう。
 わがままだって。
 自分でもわかってる。
「俺は、深雪先輩を好きだと言ってるんですよ。恋愛感情でです。それを友達として傍にいて欲しいって、残酷なこと言いますね」
「…ごめん」
 わがままなのはわかっている。
 だけれど、このまま失いたくないと思うから。  

 少しだけ、間をおいて。
「…いいですよ。もし、深雪先輩が好きな人のこと忘れるようなことがあったら、そのときは俺のこと、見てくださいね。 …俺は自分が一番じゃないと駄目なんで。中途半端に俺のこと、重ねて見て欲しくないですし。友達なんで、Hもやめときましょう。俺が、深雪先輩のことを友達だって、ホントに割り切れるようになったら、友達としてするのも、いいかもしれないですけど。もしくは、深雪先輩が、好きな人と重ね合わせなくなったらですね」
 こんな心理状況で、やったらまた混乱するだろう。
 俺は頷いて了解した。

 智巳に手を取られ、立ち上がる。
 少しだけ、気分が落ち着いた。
 
 やっぱり俺は、わがままで。
 そういったわがままを受け入れてくれて、俺のことを好きだと言ってくれる智巳が、好きになっていた。
 でも、これはたぶん、恋愛感情ではないんだろう。
 友達としての好きだ。
 友達を失いたくない。
 そういった感情に近いんだろう。
 
 というか、そう思い込みたかった。
 俺は、智巳を友達としてみてるんだって。
 後釜みたいな扱いしたくないし。
 傷つけたくも傷つきたくもない。

 もう、恋愛感情で、人を好きになりたくない。
 そう思えるようになってしまっていた。